中国共産党の犯罪 七 反右派闘争 

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1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。しかしこの運動は過去の土地改革、鎮反運動、粛反運動とは全く趣旨が異なるものだった。文学、芸術、科学技術に従事するものたちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。

だがこの運動は予想に反して盛り上がりを欠いていた。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。

毛沢東や人民日報からは
「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」
「言う者に罪無し」
「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」
という発言が飛び出し、知識人を大いに刺激した。民主主義国家では当たり前のことかもしれないが、共産党独裁の中国では現在でも容認されない画期的な政策であったことは間違いない。
こうして1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。中共による独裁が批判される一方で、儲安平は全ての分野に党員を配置する党天下を痛烈に批判した。批判の対象は毛沢東と周恩来にまで広がった。

 その後の展開をもちろんこれから述べるのだが、読者の皆様はだいたい検討がついていることと思う。問題は毛沢東はそもそも本気で党外人士や知識人の批判に耳を傾けるつもりがあったのか、それとも始めから「右派分子」を弾圧するために百家斉放、百家争鳴運動を開始したのか。同考えても後者である。すでに中国共産党は300万人の無実の人民を虐殺しているのだ。大虐殺の悪夢が過ぎ去ってからまだ1年足らずである。人民に強烈な不満がないはずがない。自由な言論を認めれば政権を揺るがすほどの批判が殺到するのは分かりきっている。この後の運動は血に飢えた毛沢東が更なる大粛清を楽しむためにしかけた運動とみなして間違いない。

 1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。今回は集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

集団虐殺がなかったとはいっても、右派分子と断罪された人々が名誉を回復するには、改革解放が始まる20年後まで待たなければならなかった。生きて名誉回復ができたのは20数万人に過ぎなかった。残りの約30万人は中国共産党によって生命を奪われたと言ってもいいであろう。また、1980年の時点で最終的に90人の右派分子が名誉を回復することができなかった。

 毛沢東自身は1958年5月8日の会議で次のように述べている。「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」と言って自ら大笑いしたという。

 反右派闘争によって当に対して反対意見を持つ知識人や党外人士が一掃されたことから、中国共産党の独裁は大幅に強化された。それと同時に党内でも毛沢東の絶対的な権力が強化された。毛沢東の権力強化、それは人民に対し悲劇をもたらすのみである。実際のところ、普通の国であれば、近現代史における最大の汚点となりそうなこの反右派闘争も、中華人民共和国においては、直後に控えていた数百倍も惨たらしい悲劇をもたらすための下準備に過ぎなかったのである。

 

 

   
     
     

 




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