チベットにはだいたい2100年の歴史があり、西暦前127年にニャティ・ツェンポ王が即位したときから始まる。とはいっても最初の700年ぐらいは神話の時代であり、歴史的事実として捉えることはできない。その一方でこの700年の神話にはチベットの世界観と、有史以来のチベット文明の発展を伺い知ることができる。
西暦629年に第33代ソンツェン・ガンポ王が即位してから史実として実証できる本格的なチベットの歴史が始まることになる。ソンツェン・ガンポ王はネパールの王女ブリクティ(チベット名ペルサ)、641年には唐の王女文成公主を后として迎えた。文成公主は顔に赤土を塗る風習を嫌ったため、ソンツェン・ガンポ王はこれを禁じたという。また、16人の留学生をインドに派遣し、彼らは帰国後、チベット文字の考案、チベット語の仏典翻訳、など仏教文化の発展に尽くした。ジョカン大聖堂が建立されたのもこの時代である。こうしてソンツェン・ガンポ王の時代にチベットは唐、ネパール、インドとの関係を強化し、チベット文化は本格的な発展をみせるようになるのである。ソンツェン・ガンポ王は649年になくなった。
ソンツェン・ガンポ王の孫にあたるマンソン・マンツェンが第34代国王に即位した。この時代、チベットは唐の制度を参考に吐蕃の行政・軍事・租税登録・徴発制度を改めて整備した。667年にガル・ティンディンが宰相に就任すると積極的に軍事行動を拡大し、西暦670年にトルキスタン4鎮(クチャ、カラシャフル、ホータン、カシュガル)を制圧。7世紀後半はトルキスタンをめぐってチベットと唐の間で激しい攻防が繰り広げられる。
676年にはティ・ドゥーソン王が第35代国王に即位。678年には青海の地でチベット軍と唐が激戦を繰り広げ、チベットが勝利を収める。だが692年には唐がトルキスタン4鎮を奪還した。
704年に第36代ティデ・ツクツェン王が即位。710年に唐の王女金城公主を后に迎えた。722年にチベットはキルギット(現在のパキスタン)を占領、さらにトルキスタン4鎮を再び攻略した。752年には南詔がチベットの属国となった。
第37代ティソン・デツェン王(在位755〜797)の時代にチベットは大きく勢力を拡張した。唐で安史の乱が発生するとその混乱に乗じて甘粛地域を占領。763年にはついに唐の都長安を占領するまでに至った。チベットは西方にも勢力を拡大し、アラビヤやトルコと国境を接するに至った。779年にはサムイェ寺が建立され、多くの仏典が翻訳された。782年にインド仏教と中国仏教で宗論を行わせ、中国仏教が敗れたため、ティソン・デツェン王インド仏教を重視し、中国仏教を禁止した。
797年に第38代ムネ・ツェンポ王が即位するが短命に終わり、798年に第39代ティデ・ソンツェン王が即位した。
第40代ティ・ラルパチェン王(在位815〜836)の時代に、チベット軍は各地で連戦連勝し、821年には唐との間に平和条約が結ばれた。この条約を刻んだ唐蕃会盟碑は長安の宮殿正門の外、ググメル山の中蔵国境地帯、ラサのジョカン大聖堂正面の三箇所に建立された。ジョカン大聖堂正面の碑は現存している。文面は中国語とチベット語で書かれ、次のように書かれている
「チベットおよび唐は、現在の国境を遵守すべし。国境の東はすべて第唐帝国に、西は大チベット帝国に属す。これより後、いずれの国も兵を挙げて隣地を侵してはならない」
841年にティ・ラルパチェン王は暗殺され、兄のランダルマ王が即位した。第41代ランダルマ王はチベットの伝統宗教であるボン教の復興を試み、843年に廃物令を発した。仏教を弾圧し、仏教寺院を破壊し、僧侶は還俗を強要された。846年にランダルマ王は僧侶によって殺害された。ランダルマ王はチベット史では極悪人扱いを受けている。
ランダルマ王の死後、その息子のユムテンとウスンの権力争いにより王国は分裂した。877年には古代王朝は完全に滅亡し、チベット王国はたくさんの小王国に分裂することとなった。
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