チベットの歴史I チベットにおける文化大革命 

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 1966年7月には紅衛兵がラサにやってきた。チベットにおける文化大革命の勃発である。中国共産党にとってチベットは、最も時代錯誤な信仰と慣習が残る野蛮な地であり、「四旧」を打破し、解放しなければならない対象であった。

8月6日、数百人の紅衛兵がジョカン寺に侵入した。紅衛兵は1週間にわたって寺院内の数百の聖堂を次々と破壊した。全ての仏像、聖典、儀式用の仏具類が破壊された。徹底的な破壊と略奪の後、ジョカン寺は紅衛兵の兵舎となり、一部は便所や動物の屠殺場と化した。ジョカン寺は1959年以降中共軍がチベット各地で行った破壊や略奪に対し、周辺寺院にあった仏像や秘法を保護するための保管庫の役割を果たしていた。それら貴重な財宝が全て粉々に破壊されたのである。

ジョカン寺で全てを破壊しつくすと、紅衛兵はノルブリンガ宮殿に狙いを定め、ここでも敷地内の宮殿を次々と破壊し、略奪した。ノルブリンガ宮殿の財宝も破壊しつくすと、紅衛兵はラサ全域で破壊と略奪を行った。周恩来首相の命令でポタラ宮と13箇所の礼拝所のみが人民解放軍により保護された。

攻撃の対象とされたのは寺院だけではなかった。通りの名称を革命的な名称に変更し、個人の家に入り込んで仏壇や民俗家具を徹底的に破壊した。宗教上の祭礼や習慣は例外なく全て禁止された。チベットの伝統的な歌謡を歌うことも禁止された。それどころか民族衣装を着ることも飾り付けをすることも、ペットを飼うことも伝統的な模様を描くことも、伝統的な髪型さえも全て禁止された。ありとあらゆる仏像や宗教文献が破壊された。その一方で何万枚もの毛沢東の写真が配布され、ラサ市内のあらゆる住居に飾られた。チベット的なものはすべて攻撃対象とされ、チベット語さえも会話以外での使用を禁止され、毛沢東語録以外チベット語の出版物は姿を消した。

相変わらず「反動分子」「反乱分子」の摘発が行われ、全ての僧侶は「悪霊」「悪魔」として厳しく糾弾された。タムジンといわれる闘争集会では、僧侶は罪名を書いた板を首からかけられ、毎日数時間に渡ってラサの市街を引き回された。さらに大勢の人間から罵倒され、殴られ、打ちのめされ、最後には息を引き取った。

1967年4月までに紅衛兵は数万人の規模に膨らんでいた。紅衛兵はいくつかの派に別れ、互いを反乱分子として敵視し、ラサ市内で市街戦を繰り広げた。1967年秋以降、シガツェ、ギャンツェ、ナチュカなど、チベット各地で激しい戦闘を繰り広げた。1968年1月の紅衛兵同士によるラサ市内での市街戦では数百人の死者が出た。こうした大規模な武力衝突で、多くのチベット人が命を奪われ、さらにチベット全土が飢餓に苦しむことになった。

分裂した紅衛兵は引き続きチベット人の「地主階級」や「貴族階級」を弾圧し、次々と逮捕した。一方から逮捕されると、即座に他の派閥の紅衛兵から逮捕された。逮捕されたものへの迫害はもはや言葉では表現できないほどの残虐さを極めた。多数のチベット人女性、時には少女までもが紅衛兵に強姦された。手、耳、鼻、舌が切り取られたりもした。

1959年以前のチベットには約6000箇所の寺院が存在したが、民主改革によってその多くが破壊されたり、閉鎖されていた。文化大革命では残された寺院も根絶の対象となった。金、銀、宝石類のついた芸術品は北京に送られ、それ以外の仏像や美術品はことごとく破壊され、略奪された。寺院がからっぽになると、チベット人たちは銃で威嚇されながら強制的に寺院の建物を破壊させられた。多くの場合寺院は頑丈にできているため、しばしばダイナマイトや大砲を使って破壊された。6000個あった寺院のうち、最終的に破壊を免れたものはわずかに8箇所であり、残された寺院さえも無傷であったわけではなく、損傷は激しかった。チベット人のみならず、全ての人類にとって貴重な文化遺産が中国共産党の暴力によって根絶やしにされてしまった。

1970年になっても弾圧は緩むことはなかった。中国共産党はダライラマ法王を「山賊で裏切り者」「人民の肉で生きている血まみれの手をした殺人者」として攻撃し始めた。中共軍は再び「裏切り者、破壊工作者、犯罪者」をでっち上げて拘束し、見せしめのための公開しょけいが多数行われた。刑務所にはさらに多数のチベット人が収容された。

この年、中国共産党はチベット自治区でも人民公社の設立に動き出した。土地、家畜、農具が農民から取り上げられて人民公社の所有物となった。チベットでも中国本土と同じような生活が始まった。早朝からスピーカーで「東方紅」が流されて一日が始まる。そして夕方まで農場での過酷な強制労働の後、夜には毎日欠席の許されない政治集会が行われた。1975年までにチベットに2000の人民公社が設立されたのであった。

文化大革命は1977年に終結した。中国共産党による侵略から約30年、人類史上において他の民族が全く経験したことのないような筆舌に尽くしがたいありとあらゆる残虐行為をチベット人は経験した。チベット亡命政府によると中国共産党がチベットを侵略後の30年間で、拷問により173,221人、死刑により156,758人、戦闘により432,705人、飢餓により342,970人、自殺により9,002人、傷害致死により92,731人、合計1,207,387人が亡くなった。私はこの数字をそのまま正確に信じていいとは思わない。なぜならチベット亡命政府は遠く離れたインドにあるがゆえ、亡命者などの証言から確証の持てる事例のみをカウントしているのであり、発表されている数字よりも死者がより多いことは確実だからである。とはいっても私は確証の持てないまま過大な数字を挙げることには反対である。よって私は中国共産党のチベットでの虐殺を非難するときには、1,207,387人という控えめな数字を用いることにしている。

中国共産党の残虐行為は、歴史上世界各地で起こった戦争や植民地支配と同列に論じることは不可能だ。例えば近代のチベットが、イギリスなどの他の欧州諸国に植民地支配を受けていたとしたら、それなりの弾圧とチベット民衆による抵抗などは確かに起きただろうが、ここまで凄惨な運命を辿ることはなかったであろう。

だがこの時期に受けた苦しみはチベット人特有のものであったわけではない。東トルキスタン、南モンゴル、及び中国本土でも中国共産党による無差別大量殺戮、破壊、略奪、拷問が大規模に行われていた。まさに中国共産党は人類史の汚点であるというほかない。

 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

チベットの歴史

@古代王朝時代

A分裂国家の時代

Bチベット文化圏の拡大

Cダライラマ政権時代

Dダライラマ13世時代

Eダライラマ14世幼少期のチベット

F平和解放という名の侵略

Gチベット動乱

H民主改革

Iチベットにおける文化大革命

J引き裂かれた自由への期待

K大いなる干渉

L終わらない弾圧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
     
     

 




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