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1976年9月に毛沢東が死去し、翌月には文化大革命が集結すると、中国共産党のチベット政策にも変化が現れた。宗教がある程度認められ、破壊された寺院が各地で再建されるようになった。

1978年2月、それまで10年以上軟禁状態に置かれ、生死さえ不明であったパンチェンラマ10世が公の場に姿を現した。十数年ぶりに姿を現したパンチェンラマは力士のように超え太っていた。翌年、パンチェンラマは本来ならばゲルグ派の僧侶には許されないことだが、李潔という女性と結婚した。

1980年、胡耀邦中国共産党総書記がチベットを訪問、あまりの貧困ぶりを目にし、大きな衝撃を受けることとなる。チベット人の生活は1959年の状態よりもさらに悪化していた。胡耀邦は涙を流してこう述べた。「中央政府は今まで数十億元をチベットに費やした。諸君はどこに使ったのか。川に投げ捨てたのか。」胡耀邦は早速チベット自治区の共産党書記である任栄を解任し、さらに自治区の中国人幹部を85%交代させ、チベットの自治を強化し、中央政府の政策がチベットの現実に合わなければチベット人はそれを拒否し、廃止する権利を持つ」と約束した。だがこの胡耀邦の発言は視察時のあまりのショックの大きさから思いつきで述べたようだ。胡耀邦が北京に戻った後、チベット自治区政府が胡耀邦の約束を実行することはなかった。

中国共産党と、ダラムサラのチベット亡命政府は話し合いを模索するようになった。手始めに1979年2月下旬、ダライラマの兄ギャロ・トンドゥプ氏が私人という名目で北京を訪問し、中国高官たちと会談を行った。中国政府は亡命チベット人のチベット視察を認めるようになり、1979年から1980年にかけて視察代表団が計3回チベットに派遣された。しかし1980年8月に中国側の一方的な都合で4回目の視察団派遣は中止され、1985年7月に5回目の視察団派遣が実現したが、それ以降は全く許可されていない。

1981年には外国人のチベット観光が許可されるようになった。観光客が期待するエキゾチックな魅力を供給するため、一部の寺院の修復作業は急ピッチで行われた。外国人のチベット観光は順調な拡大を見せ、1987年には4万7千人がチベットを訪れた。1985年からは個人旅行も可能となった。外国人のチベット観光は、チベットに予期せぬ効果をもたらすこととなった。中国側に練り上げられた団体観光と違い、個人旅行ではチベットのより本質的な部分に触れることが可能であった。個人旅行者はどこに行ってもチベット人から熱烈な歓迎を受けた。そして旅行者の誰もがチベット人が「Chinese No Good!」と叫ぶのを耳にした。中国共産党による30年間の、ごく普通の国で生まれ育った人たちには想像することすら困難な、小説や映画でさえも表現できないような地獄を味わってきたチベット人たちは、自分たちの経験を旅行者に伝えるため、必死になって英語を勉強するようになった。

また、チベットのいたるところでダライラマ14世の写真が掲げられるようになってきた。中国共産党は30年間徹底的にチベットの文化を破壊し、ダライラマを悪者とする教育を施してきたはずであった。しかしチベット人はダライラマに対する尊敬の念を少しも捨ててはいなかったことが証明された。中国共産党の占領政策の大敗北が明白となった。

改革解放以来、チベット人の自由が一定程度高まったのは事実である。だがチベット人に対する弾圧は、規模が小さくなっただけで依然として続いた。

1979年2月に中国はベトナムを侵略、中越戦争が勃発した。この戦争で中国は惨めな敗北を喫したうえ、さらにチベット兵を最前線に送り込んだため、多くのチベット人が犠牲となった。

1982年5月には、チベット人活動家115人が逮捕された。

1983年には、改革開放政策の反動として、中国共産党支配地域全域で精神汚染撲滅運動が行われ、これにより11月にはラサだけで750人が政治犯として刑務所に収容された。

そして1987年以降、ラサは再び中国共産党の本質的特質である暴力によって血の海地獄となる。

1987年9月21日、ダライラマ法王は米国を訪問し、アメリカ議会で演説を行った。中国政府はヒステリックな反応を示し、アメリカ政府に猛抗議を行った。そのわずか6日後、ジョカン寺で数十人の僧侶がチベットの国旗を掲げてラサ市内を1時間にわたって行進し、「チベットは独立を要求する!」「中国人よ、チベットを去れ!」と叫んだ。

そして中華人民共和国の建国記念日である10月1日、再び数十人の僧侶がチベット旗を掲げてジョカン寺の周囲を行進した。すぐさま警察がデモ参加者を連行し、警察署の内部に引きずりこまれた。チベット人は黙ってはいなかった。数千人が警察署を取り囲み、石の雨を投げつけた。武装警察との睨み合いがしばらく続いた後、ついに武装警察は発砲し、無差別殺戮を始めた。ジョカン寺周辺は大混乱となり、多数の死体が横たわった。外国人観光客はチベット人から、ぜひこの様子を撮影し、全世界に広めてほしいと懇願された。少なくとも数十人のチベット人が虐殺された。

ラサ市内では警察による警備が強化され、特に寺院は厳重な監視対象とされた。にも拘らず10月6日にはラサ市内で再びチベット人60人がデモ行進を行った。警察は彼らを棍棒でぶん殴るなどの暴力行為を働いた。全員が殴られ、逮捕された。

1988年2月、ラサでモンラム・チェンモという大祈祷法会が行われた。11日間にわたって行われるチベット伝統の宗教行事は1960年代から禁止されていたが、前年(1987年)から開催が認められていた。中共当局は6千人の警官隊を配備して厳重に警備していたが、何事もなく一切が順調に進んでいるように思われた。ところが最終日の3月5日、2万5千人が見守る中で、一人の僧侶がマイクを掴み、「チベットに自由を!チベットに独立を!中国の抑圧を倒せ!ダライラマ万歳!」と叫んだ。何百人のチベット人も同じように叫んだ。そして数千人のチベット人が民族の歌を歌い始めた。30分後には武装警察到着し、催涙ガスで広場を鎮圧し始めた。多数の僧侶がトラックの中に引きずり込まれた。

間もなくラサ市内で激しい暴動が起きた。中国人が経営する商店が略奪を受け、放火された。中国仏教協会チベット事務所と警察署も襲撃された。多数の警察官がリンチされた。

翌日にはさっそくラサ市民に対する捜索が一斉に行われ、多数のチベット人が逮捕され、拷問をされた。後にチベット亡命政府が発表したところでは、逮捕者は2500人に上った。

4月17日にも尼僧15人前後がジョカン寺前でデモ行進を行い「ダライラマ万歳」と叫んだが、即刻逮捕されてしまった。

1988年12月10にはジョカン寺で僧侶たちがデモ行進がおこなった。さっそく中共武装警察が無差別発砲を行って虐殺した。そのときの様子はオランダ人旅行者や西側ジャーナリストよって目撃されている。このとき少なくとも15人が虐殺され、150人以上が重症を負ったという。

中共当局による血の弾圧にも関わらず、チベット人はあきらめなかった。1988年12月19日にはチベット人学生70人が北京の天安門広場でデモ行進を行った。12月30日にもラサ市内で500人のデモ行進が発生した。

ラサ市内では重苦しい空気が流れていた。これ以上弾圧を強化すればますます火に油を注ぐことは明白であった。北京の中央政府では妥協と和解を主張する勢力も少なからずいた。そして1988年12月、チベットとの対話に最も積極的であった胡錦濤がチベット自治区共産党総書記に就任した。中央政府が示した宥和政策の一環であった。だが間もなく、胡錦濤は改革解放以降のチベットで起こった最大の虐殺事件の黒幕となるのである。

ここでパンチェンラマについて述べておきたい。パンチェンラマ10世は、1987年3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会において、中国政府のチベット政策を堂々と批判した。1989年1月24日には、中国によるチベット統治を再度非難し、「チベットは中国から得た恩恵よりも中国によって失ったものの法が大きい」と述べた。そのわずか4日後、パンチェンラマは52歳の若さでこの世を去った。暗殺説もあるが、中国政府は心臓麻痺によるものと発表している。真相は不明だが、極度の肥満体であったことを考えれば、心臓麻痺説も一概には否定しきれない。時には中共の駒として動き、時には中共のチベット政策を痛烈に批判し、時には亡命を試みて失敗し、10年以上の軟禁を経験したパンチェンラマ10世はこうして、激動の歴史に翻弄された生涯に幕を閉じたのであった。

1989年になってもチベット人は自由と独立を求める運動をやめなかった。2月17日、チベット旗が数時間に渡ってジョカン寺の屋根にはためいた。2月20日には市内16箇所にチベットの旗が現れた。

そして悲劇は3月5日に発生した。ラサ市内で数百人がデモ行進が行、多くのチベット人がチベットの国旗を掲げて独立を主張した。中共軍はためらわなかった。中共軍は次々と無差別大量殺戮を強行し、ラサ市内のあちこちに死体が横たわった。

翌3月6日もチベット人たちはラサ市内各地でデモ行進を行い、その規模は数千人に膨れ上がった。中国銀行、警察署、官公庁の建物が襲撃され、破壊された。3月6日夜から警察が大規模な人間狩りを始めた。チベット人の各家庭を襲撃し、扉を叩き壊して住民を殴り倒し、子供や老人を銃殺したりさえもした。ラサ市内のあちこちでチベット人たちの悲鳴が飛び交った。

3月8日午前0時、中国政府はラサ市内に戒厳令を施行した。あらゆる種類の会合、行進、陳情、請願、集会が禁止された。ラサ市内で大規模な逮捕劇が行われた。ラサは恐怖と弾圧の街と化し、多くのチベット人が家の中にこもりきったが、重武装した武装警察が次々と各家庭に乱入し、これ見よがしに逮捕して言った。中国系ジャーナリストタン・ダーシェンによると、400人が虐殺され、数千人が負傷し、3000人が逮捕されたという。これにより、チベット人による大規模な抗議行動はしばらく影を潜めることになる。そのわずか3ヵ月後には北京でより大規模な数千人規模の無差別大量虐殺によって多くの中国人が犠牲となったことは周知の通りである。

戒厳令は1990年5月1日まで続いた。12月にチベット自治区共産党書記に就任したばかりであった胡錦濤は、チベット人大虐殺を中央政府から高く評価され、その後は出世街道を登りつめ、2003年に国家主席に就任することになる。

このようなチベットに対する人権侵害に対しては国際社会でも非難が高まるようになってきた。欧州議会は1987年10月14日、1989年3月15日、1990年4月25日に非難決議を採択、西ドイツは1987年10月15日、イタリアでは1989年4月12日、オーストラリアでは1990年12月6日と1991年6月6日に非難決議が採択された。

 

 

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