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1989年10月、ダライラマ法王にノーベル平和賞が授与されることが決定した。チベットの自由と平和のための取り組みを非暴力的な手段で行っていることが大きく評価された。ダライラマの出身国は中国ではなく、チベットとされた。このニュースは瞬く間にチベット人社会に言葉では言い表せない歓喜をもたらした。中国政府はすぐさまヒステリックな抗議の意を示した。12月10日、ダライラマ法王はノルウェーのオスロでの授賞式に参加し、演説を行った。この時期、ダライラマ法王はすでにチベットの独立を蜂起しており、中華人民共和国ないでの外交と国防分野を除く高度な自治を要求していた。あくまでも武力を用いることには批判的で、平和的な問題の解決を主張していた。ダライラマ法王の非暴力的な姿勢は世界中の共感を集めることとなった。

一躍世界的な知名度を持つようになったダライラマ14世は翌年から積極的に外遊を行うようになり、1990年だけでチェコ・スロバキア、ベルギー、バチカン、スペイン、スウェーデン、オランダ、カナダ、ドイツ、フランスを訪問した。バチカンではローマ法王ヨハネ・パウロ2世と会談し、ドイツではワイツゼッカー大統領と会談した。1991年以降もダライラマ法王は毎年10カ国以上を精力的に訪問している。

ダライラマ法王の平和的な呼びかけにも関わらず、中共当局はチベット人に対する暴力的な弾圧を続けていた。1991年4月10には146人のチベット人が「犯罪者」として逮捕された。

1992年2月には、中共公安はチベット人の家庭に次々と押し入り、ダライラマの写真やビデオを持っていた人を次々と逮捕した。逮捕者は200人に上った。

1993年5月24日には1万人以上の大規模なデモ行進が行われたが、中共軍によって武力鎮圧された。

結局1990年代に入っても、中共による人権侵害は犠牲者の数が少なくなっただけで、その残忍性は文革時代から衰えていない。電気棒、手当たり次第に殴る、鉄の棒で打ちのめす、番犬に手足を噛み切らせる、女性の生殖器に電気棒をぶち込む、タバコの火を押しつける、妊婦を強引に流産させる、逆さづり、性的暴行、犠牲者の口への放尿、血液や体液の強制抽出などの拷問が依然として行われていた。

1992年、九寨溝、黄竜がそれぞれユネスコの世界自然遺産に登録された。チベット初の世界遺産登録物件である。これにより、チベットの類まれな大自然が世界に知られるところとなった。この2箇所は一般的には四川省として紹介されているが、実際にはアバ・チベット族チャン族自治州にあり、まぎれもなく東チベットのカム地方である。1994年にはラサのポタラ宮がユネスコの世界文化遺産に登録された。残念ながら3件とも中華人民共和国という扱いを受けている。

パンチェンラマの転生者探しは1991年から行われていたが、1995年1月、ラサの北郊外に住むゲドゥン・チューキ・ニマ少年が、パンチェンラマの転生者として適格であることが判明。その後も慎重に吟味された上で、1995年5月14日、ダライラマ14世は少年をパンチェンラマ10世の転生者として正式に発表した。ところが3日後の5月17日、中共当局はなんとゲドゥン・チューキ・ニマ少年とその両親を拉致したのだ。さらに中共当局はパンチェンラマ11世の認定に関わった人物を次々と逮捕、投獄した。例えば中国側のパンチェンラマ転生者探索委員会委員長を務めていたタルシンポ寺の僧院長チャデル・リンポチェは、ダライラマが認定した転生者を支持したため、パンチェンラマとほぼ同時期に逮捕された。チャデル・リンポチェは「祖国分裂」と「国家機密漏洩」の罪で懲役6年の刑に処せられた。

そして中国共産党はあろうことか、1995年11月29日、ギェルツェン・ノルブ少年をパンチェンラマの転生者に認定した。無神論、無宗教の中国共産党がパンチェンラマの転生者を認定するという矛盾に満ちた行為が行われたのである。国際社会は中国政府に、少年の居場所を公表するよう強く要請、中共当局は1996年5月28日、少年と両親を「保護」していることを認めた。だがパンチェンラマ11世に認定されたニマ少年が今現在どこに拘束され、どのような生活を送っているのか、現在でも存命なのか全く知らされていない。

90年代を通して中国共産党による民族弾圧、宗教弾圧は続いた。1996年3月15日には、中国によるパンチェンラマ探索の介入を非難するパンフレットを配ったという理由で4人の学僧が逮捕された。パンチェンラマ探索に関わって逮捕されたチベット人は80人にも上るという。

 また、中国共産党は歴代パンチェンラマが座主を務めているタルシンポ寺に9人の工作隊を派遣し、週2回、1回3時間半にわたって政治教育を行い、ダライラマを強制的に批判させるなどしている。

1999年12月28日、当時14歳のカルマパ17世はツゥルプ寺を脱出し、1月5日にインドのダラムサラに到着した。ここで簡単にカルマパについて説明しよう。前代のカルマパ16世はダライラマ法王が亡命したのと同じ1959年にインドに亡命した。その後はシッキム(歴史的にはチベット系の小王国であったが、現在ではインドのひとつの州となっている)を根拠地に全世界でカルマ派の普及に努めていたが、1981年に癌のため、アメリカで死亡した。その後はカルパマの転生者は順調に進まなかったが、1992年5月にウルゲンという少年が転生者として任命された。1985年6月生まれで当時6歳であった。

中国政府は転生者探しに協力する形で介入した。1989年1月に、それまで中国共産党の駒として利用し続けてきたパンチェンラマ10世を失い、その年の12月にはダライラマ14世がノーベル平和賞を受賞するなど、中国のチベット政策は苦境に立たされており、何とか新たな駒を捜していたのである。カルマパ17世が認定された翌月の6月25日、中華人民共和国国務院は認定文書を発表している。

だが結局、2000年1月にインドに亡命し、中国政府の面子は丸つぶれとなった。ダライラマ14世とカルマパ17世が並んでいる写真は世界中を駆け巡り、日本のマスコミでも大きく報道されることとなった。

 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

ダライ・ラマ法王日本代表部事務所

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