1240年、チンギス・ハンの孫に当たるゴダン・ハン率いるモンゴル帝国軍がチベットに侵攻し、ラサ北方のペンポにいたった。しかしゴーダン王子はサキャ派の指導者であるサキャ・パンディタの導きで仏教に帰依し、モンゴル帝国軍は撤収した。
フビライ・ハンも、ゴダン・ハンの路線を受け継いで、サキャ・パンディタの後継者であるパスパの導きで仏教を取り入れた。こうしてチベットとモンゴルの間に「寺と檀家の関係」いわゆるチュ・ユン関係がはじまり、その後の数百年にわたるチベット・モンゴル間の強い宗教的連帯の基礎が固まった。フビライ・ハンは仏教を国教とし、パスパは仏教会の最高権威となる。1254年にフビライ・ハンはパスパにいくつかの称号を授与した。パスパはモンゴル帝国の帝師に任命され、文化・宗教顧問として活躍、1269年にはモンゴル語を表記するためのパスパ文字を発明した。1271年にモンゴル帝国が大元大モンゴル国と改めてからも、引き続きパスパが帝師を務め、1280年のパスパの死後も、サキャ派の僧侶が大元・大モンゴル国の帝師を務めた。チベットは1254年から1350年まで24人のサキャ派の僧侶によって支配されることになった。
当時のチベットはモンゴル帝国の影響下におかれたものの、聖俗の権威を二分した相互依存関係と呼ぶのが相応しい。すなわち、モンゴル帝国の皇帝と宗教の導師が優劣なく互いに依存していたのである。チベットの宗教指導者が皇帝の保護を受けてチベット統治を保障してもらう一方、皇帝は帝国の正当性を宗教指導者に保障してもらったのである。
大元大モンゴル国が衰退に向うとサキャ派も倒れ、1350年、中央チベットはカギュー派の分派であるパクモ・ドッパ派の僧チャンチュプ・ギェルツェンの支配下に収まった。チャンチュプ・ギェルツェンはチベットの政治制度からモンゴル色を一掃し、チベット独自の制度を導入した。以後86年間この一派の僧侶がチベットを支配した。大元大モンゴル国は1368年に北上し、代わって明王朝が誕生した。チベットと明王朝の関係は疎遠で、たまに一部の僧侶が個人的に明を訪れ、皇帝から世俗の称号をもらう程度であった。また、1391年にダライラマ1世ケンドゥン・ドゥプが誕生しているが、実際にダライラマの称号がモンゴルから与えられるのは1577年のダライラマ3世からであり、この時に2代さかのぼって称号がおくられるのである。
1434年に第5代目のドッパ・ギャルツェンが死去すると、リンプン一族が1436年から1556年までチベットを支配した。
さらに1556年から1642年まではツァン地方の王がチベットを支配した。
その一方で1556年にチベットを攻撃したモンゴルは僧侶を捕虜とし、アルタン・ハンの元に連れて行かれた。しかしアルタン・ハンは仏教の虜となり、1577年、デプン僧院からソナム・ギャツォをモンゴルに招いた。アルタン・ハンはゲルグ派に改宗し、ソナム・ギャムツォはダライラマの称号を与えられた。このとき、ゲルグ派の2代上の僧侶にまでさかのぼってダライラマの称号が与えられたため、ソナム・ギャムツォはダライラマ3世となった。
1588年にダライラマ3世が亡くなると、翌年誕生したモンゴルの王子ユンテン・ギャツォがダライラマ4世とされた。だが当時のチベットはツァン地方の王が支配しており、ゲルグ派の根絶を狙っていた。1619年にはカワン・ロザン・ギャツォがダライラマ5世とされたが、秘密にするしかなかった。
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