1566年以降、中央チベットはツァン州の族長デパ・ツァンパによって支配されていた。だがモンゴル軍とゲルグ派の連合によりツァンパ軍は撃退され、1642年、ダライラマ5世はチベットの宗俗をつかさどる指導者となり、「ガンデン・ポタン」と呼ばれるチベットの政治組織を作り上げた。
ダライラマ法王は満族と良好な関係を築いた。まだチベットにおける覇権を確立する前の1639年、満州の皇帝ホンタイジはダライラマ法王を首都である瀋陽に招待した。ダライラマ自信は行くことができず、代理を派遣したところ、ホンタイジから丁重な扱いを受けた。こうしてかつてモンゴル族とそうであったように、満族ともチュ・ユンの関係が結ばれた。清が中国を併合した後の1652年、ダライラマ5世は清の順治帝の招待により北京を訪問。国家元首として盛大な歓迎を受けた。ダライラマ5世と順治帝は互いに高い称号を与えあい、チュ・ユンの関係が確認された。
ダライラマ5世はチベットの恒久的な平和を望み、自らを観音菩薩の化身、ソンツェン・ガンポの化身であることを示すべく、ラサに宮殿を建てることを決め、1647年にポタラ宮が完成した。
1682年にダライラマ5世は死去したが、摂政のサンギェー・ギャツォはダライラマ5世の遺言に基づき、チベット国内の混乱を避けるため、15年間5世の死を隠匿した。どうしても公に姿を表さなければならないときは替え玉を利用した。サンギェー・ギャツォを西モンゴル系のジュンガル帝国と同盟を結び、清朝及び東モンゴルに全面戦争を仕掛けたが失敗に終わり、1697年にジュンガル帝国のガルダンは自殺に追い込まれた。サンギェー・ギャツォはダライラマ15世の死を公表し、戦争の責任をガルダンに押し付け、清朝との関係改善を試みた。
ダライラマ6世は優れた詩を沢山残したが、乱交に目の余るものがあり、しばしばポタラ宮を抜け出しては情事に勤しんでいた。1705年、モンゴル・ホショット族のラザン・ハンはこの乱交を口実に1705年、ダライラマ6世を退位させ、自分の孫にあたるイェシー・ギャツォをダライラマに任命した。
しかしこうしたラザン・ハンの振る舞いはチベットで反感をかい、東トルキスタンを支配していた別のモンゴル系の王朝であるジュンガルに助けを求めた。1717年、ジュンガル族はラザン・ハンを敗退させた。だがダライラマ7世は当時清朝により保護されていた。1720年に清朝はチベットに侵入し、ジュンガル軍を敗退させた。こうしてダライラマ7世は正式に即位した。
1723年に清軍は撤退したが、その代わり2名の駐蔵大使(いわゆるアンバン)をラサに常駐させるようになった。アンバンには満族かモンゴル族が任命された。一般的にはこれをもってしてチベットは清朝の支配下に入ったとされるが、実際にアンバンとは大使、つまり外交官であり、チベットに対する実権を握っていたわけではない。
1727年に再びジュンガル軍がラサに侵攻してきたが、チベットはこれを撃退。その後の20年、チベットは全盛時代を迎えるが、1747年に宰相に就任したポラナは強硬な反清朝政策をとったため、1750年にアンバンによって暗殺された。これに対しチベットはアンバン、及びラサに駐在していた100人余りの清兵を皆殺しにした。
1751年に清の乾隆帝はラサに軍を派兵した。
1788年にはネパールがンガリ地方のロンシャールとルトク地方を侵略、1791年にはシガツェを侵略した。チベット政府は清朝に援軍を要請し、乾隆帝は2万の軍隊を派兵、チベット、清連合軍はネパールを撃退し、さらにネパールの首都であるカトマンズを占領するに至った。しかしこれをきっかけにアンバンがチベットの内政問題に間接的に介入するようになる。
チベットは1841年にカシミールからの侵略を経験した。続いて1855年に再びネパールがチベットを侵略。今回もチベットは清に派兵を要請したが、すでに弱体化していた清は何もできず、チベットは単独でネパールと交戦したが敗北し、条約が締結された。この条約は1956年まで存続した。
清朝の弱体化していく中で、イギリスが徐々にチベットに関心を示すようになった。イギリスは1876年に清と北京条約を結び、イギリスの探検使節が清とインドを往来するときはチベットを往来する権利を有することを認めさせた。だがこれにチベットは反発し、イギリス人を絶対チベットには入れないと宣言した。1887年にチベットはシッキムとの国境にリントウ検問所を設置し、鎖国政策を強化した。
1888年にはシッキムとの国境でチベット軍とイギリス軍の武力衝突が数回発生した。翌年にはイギリスが清朝とのあいだで、英領インドとチベットとの国境を定める軽かった条約を締結したが、チベット政府は交渉の当事者ではなかったことに反発し、北京条約とカルカッタ条約を拒否した。
鎖国政策を取り続けるチベットにも、国際情勢の激変の波が押し寄せていることは明らかだった。そのような中で、1895年、ダライラマ13世が19歳で国王に即位した。
|