チベットの歴史F 平和解放という名の侵略 

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私はチベットの歴史をまとめるにあたって、チベット中心の時代区分を構成するよう心がけた。チベットの歴史なんだから当たり前ではないか、と思われるかもしれないが、チベット史に言及した書籍、ウェブサイトを見ると、中国の時代区分に準拠したものが多い。例えば元代のチベット、明代のチベットとか、明王朝との関係、清王朝との関係、中華民国との関係などのようにである。確かにそのほうが日本人には分かりやすいのだろう。だがそのような歴史観はまるで間接的にチベットが中国の一部分であるかを認めているかのようだ。

私はあくまでもチベットを中心にすえた時代区分にこだわり、辛亥革命は隣国の出来事と捉え、ダライラマ13世時代のチベット、ダライラマ14世幼少期のチベットという時代区分を設けたのである。だとするならば、ダライラマ14世の時代区分を少なくとも1959年のインド亡命まで継続させるべきという意見もあるかもしれない。しかし私は1950年の中国共産党によるチベット侵略で時代区分を区切るのが適切であると確信している。神話の時代を除いて1400年に及ぶチベットの歴史において、チベットにおける1950年という年はチベット史を真っ二つに分割できるほど、日本史における明治維新や中国における辛亥革命などよりも重要度が高いのである。それまで封建的ではあったが、比較的平和な歴史を築いてきたチベットは、突如として筆舌に尽くしがたい暗黒の時代に突入した。それま間違いなくチベットにとって、悪い意味での重大な転換点となる年だったのである。

1950年10月7日にチベット侵略を開始した4万人の中共軍は、カム(東チベット)の州都チャムドを侵略した。8千人のチベット軍は防戦したがわずか2日で敗退し、チャムドは陥落した。カムの省長であったンガワン・ジグメは残された武器弾薬を爆破するよう命じた。後にンガワン・ジグメはチベット史上最悪の売国奴として人々から恨まれるようになる。

中共軍がチベット侵略を開始して10日後の1950年10月17日、チベット政府はダライラマ14世テンジン・ギョツォに政治と宗教の全権を賦与した。間もなく法王は安全のため、インド国境近くのヤートンに避難した。

中国による侵略行為に対してインド政府は10月26日、非難声明を発表、イギリス政府もインドの立場を支持した。だがこれらの声明はチベットにとって直接的な助けとなるものではなかった。11月に入りチベット政府はダライラマ名義で国連への提訴を行った。11月17日、中米のエルサルバドルがすぐさま国連で正式に議題するよう提起したが、結局国連で議題になることはなかった。12月8日にチベット政府は再度国連に書簡を提出したが、状況は変わらなかった。もはやチベットには中国との直接交渉しか道は残されていなかった。

1951年4月、チベット政府はンガワン・ジグメを団長とする7人の代表団を北京に派遣した。これら代表団にはチベット政府の意向を伝えること、中国政府の主張をチベット政府に伝えるという権限しか与えられていなかった。にも関わらず中国政府は彼ら代表団にラサと連絡を取ることを許さず、机を強く叩き、大声で罵倒し、協定に署名しなければラサに武力侵攻すると恫喝した。代表団はラサと連絡をとることさえ許されなかった。こうして1951年5月23日、「チベットの『平和解放』に関する十七条協定」が調印された。代表団は協定を締結するための印璽を持参していなかったが、中共政府は印璽を偽造して無理やり調印させた。 5月27日にはラジオ放送で十七条協定の全文が放送され、ヤートンに非難していたダライラマ14世は初めて協定の存在を知った。

7月には、7人の代表団のうち、ンガワン・ジグメを除く代表団6人がインドを経由して、ダライラマのいるヤートンに戻った。ここでダライラマがラサに帰還するか、それともインドに亡命するかで貴族たちの間に激しい論争が行われた(ヤートンからインドまでは一日で辿り付く事ができた)。論争に全く収拾がつかず、最終的に憑依状態のお告げ師の勧告により、ダライラマはラサに戻ることになった。ダライラマは9月6日にラサに戻った。

9月9日には中共軍がラサに進駐し、チベット政府に圧力をかけた。9月末にチベット議会が召集され、北京から戻ったンガワン・ジグメも参加した。すでに中共軍はチベット各地に軍事侵略を開始し、各都市はことごとく中共軍に占領されていた。万策が尽きたダライラマ法王は10月24日、毛沢東に手紙を送り、十七条協定の批准を表明した。

チベットの苦難の歴史が始まった。人口7万人のラサに2万人の人民解放軍が進駐し、膨大な食料供給を強要され、食料価格が暴騰。ラサ市民は瞬く間に飢餓に襲われた。チベット人にとって初めて経験した飢餓であった。

中国はチベット支配を強化するため、四川省の成都市とラサを結ぶ全長2413キロの西蔵公路と、西寧とラサを結ぶ全長1965キロの青蔵公路建設のため、多くの耕作地が無補償で徴用された。さらにチベット人がほとんど無報酬で強制労働を強いられ、完成までに数千人の命が奪われた。

徐々にチベット人の間で中国に対する怒りが高まり、中国を罵る歌を歌ったり、中国を批判する集会を開いたり、ポスターが貼られたりするようになった。チベット政府の世俗の首相ルカンワは、張経武将軍に対し、「チベット政府を援助するために来たという将軍の保障にも拘らず、中国側は今まで全く助けるようなことはしていない。それどころか中国軍の存在自体が私たちにとって深刻な苦しみとなっている。あなた方の行動のほとんどが人々の怒りと憤懣を増大させるばかりである」と厳しい口調で非難した。激怒した中国側はダライラマ法王に対し、ルカンワ首相の罷免を要求。ダライラマ法王はルカンワ首相の勇気ある行動を賞賛していたが、中国側の恫喝にどうすることもできず、ルカンワ首相は1952年に辞任した。

1953年12月、毛沢東はインド首相ネールと会談し、パンチシーラ平和五原則協定を締結した。この協定により、インドとチベットとの交易は全て中国経由で行われることとなった。これは中国のチベットに対する主権を認めた最初の国際条約となった。

1954年、北京で憲法制定のための全国人民代表大会が準備されており、ダライラマ法王にも出席の要請があった。中国の国会の一因になることは法王の尊厳に関わる問題であったが、それよりもダライラマ法王は北京で直接中国首脳とか会見できる機会を重視した。チベット人は誰もが大反対し、一般民衆も巻き込んでラサは混乱状態に陥ったが、ダライラマの決意は固かった。

1954年7月、ダライラマ法王は北京を訪問した。ダライラマにとって初めての近代文明との接触であった。飛行機、汽車、近代的建築、病院、大学、全てが経験したことのないものであった。ダライラマは北京滞在中にすこぶる丁重なもてなしを受け続けた。毛沢東国家主席、周恩来首相、劉少奇、朱徳国家副主席らと相次いで会談を行ったほか、インドのネール首相、ソ連のフルシチョフ首相ら数多くの外国要人とも会談した。ダライラマは毛沢東に対しても大変好感をもち、中国の宗主下でのチベットの将来に若干の希望を持つようになっていた。

だが北京で離れる前日、ダライラマは毛沢東から「宗教は毒だ。宗教は人口を減少させ、物質的進歩を無視する」という言葉を聞いたとき、ダライラマは平静を装いながらも大きなショックを受けていた。チベットの将来に希望を見出しかけていたところに、再び暗雲が立ち込めていた。


 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

チベットの歴史

@古代王朝時代

A分裂国家の時代

Bチベット文化圏の拡大

Cダライラマ政権時代

Dダライラマ13世時代

Eダライラマ14世幼少期のチベット

F平和解放という名の侵略

Gチベット動乱

H民主改革

Iチベットにおける文化大革命

J引き裂かれた自由への期待

K大いなる干渉

L終わらない弾圧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
     
     

 




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