チベットの歴史H 「民主改革」 

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 東チベットで広範囲に広がっていたチベット人による武装闘争はアメリカ政府の関心を引くところとなった。

 1950年代末にCIAはチベット人武装組織への支援を決め、これを「ガーデン作戦」と名づけた。数百人のチベット人義勇兵がインドに脱出した後、タイや日本の沖縄を経由してグアムで軍事訓練を受けた。CIAは彼らにパラシュート降下技術、重火器の使用方法、無線通信の利用方法など、様々な軍事訓練を施した。CIAからみっちり訓練を受けた彼らはパラシュートでチベットに帰還し、中共軍と勇敢に戦い、敵に一定の損害を与えることに成功した。だがCIAの支援を以ってしても、事態はすでに手遅れと言ってよかった。人員でも装備でも上回る中共軍は次第にチベット人義勇兵を圧倒するようになっていったのである。CIAによる支援は1971年7月のキッシンジャー極秘訪中により、最終的に打ち切られた。

 ダライラマ亡命直後の1959年4月8日、中共当局は「民主改革」運動を開始した。民主改革とは中国共産党お得意の階級闘争で、「チベットを外国帝国主義者から解放し、三大封建領主(政府、寺院、貴族)からチベット人民を解放する」という名目で行われ、1961年4月に終了した。これによりチベット社会は6つの階級に区分された。@高僧、貴族、大土地所有者、政府役人などのいわゆる三大封建領主、A訓戒僧以下の僧侶、町村の指導者、B富農、C中農、D貧農、E反乱分子、というものである。

 その一方で民主改革により、チベット人に対する弾圧がますます強化された。「反動分子」「チベット独立主義者」「反中国主義者」を徹底的にあぶり出し、摘発することが目的であった。ありとあらゆるチベット人が摘発の対象となった。当局に出頭を命ぜられ、多くのチベット人が投獄、殺害されたり、収容所で強制労働をさせられた。一時期、子供と老人と身体虚弱者を除いてラサの街には男性の姿がほとんど見られなくなった。強制収容所は主に青海と甘粛に設置された。1959年から1961年の間に甘粛省蘭州の強制収容所には7万人のチベット人が拘禁され、そのうち3万5千人は餓死したという。

 実際のところ、餓死したのは強制収容所に拘束されたものに留まらなかった。ちょうどこの時期は中国全土で大躍進運動が行われ、様々な資料の中で控えめな数字を取り上げたとしても3千万人の餓死者が発生していた。飢饉は1961年まで続いたが、チベットでは1963年まで続いた。母親は子を飢えさせないためにも、水に自分の血を混ぜて子供に飲ませていた。

 三大封建領主と反乱分子に対する弾圧は特に徹底していた。宗教は阿片であるという理由で、寺院の所有する土地、食料、家畜などの財産は没収され、高僧は強制収容所に入れられ、身分の低い僧侶はことごとく還俗させられた。1964年までに5万人の僧侶が強制収容所に送り込まれ、1966年までに90%の僧侶が還俗を強制されたという。

 寺院からは金、銀、青銅などが剥がし取られて北京へ持ち去られ、仏像は破壊された。残された寺院は中共軍の砲撃により破壊された。破壊されなかった貴重な財宝の数々は数年かけて大量のトラックによってチベットから北京へと運ばれていった。

 中国共産党主導による階級闘争がさかんに行われた。以下にペマ・ギャルポ著「チベット入門」から引用しよう。

 

 「さまざまな階級に組み込まれた人々は、特別人民集会に呼び出され、前もって中国側が作成した「資料」に基づき、「犯罪者」として告発される。集会に参加した人々は「犯罪者」を告発どおりに非難し、殴り、つばを吐きつけ、髪を引っ張り、数々の辱めを行わなければならない。その模様を中国人担当者が詳細にノートし、もっとも激しく非難し行動したものには「進歩分子」と評価、非難が甘いものは批判され、同情を寄せたもの、弁護した者は「犯罪者」と同類に扱われ、同じ運命を辿ることになった。「進歩分子」が多ければ多いほど「犯罪者」は虐殺される。しかし「犯罪者」を殺しても殺人にはならなかった。こうして「犯罪者」は公開処刑され、飢餓状態に置かれ、苦役のため死亡し、自殺に追いやられた。」


 中国共産党による残虐行為に国際的非難も高まった。法律家国際委員会は『チベット問題と法の支配−チベットと中華人民共和国』と題するレポートで、「いかなる人間または国家と家でも、これ以上非難され得るものはないほど、もっとも重大な反道徳的社会的犯罪」として中国を厳しく非難している。また国連の場でも1959年の国連総会でチベットの文化的、宗教的生活を尊重し、自決を擁護する決議が採択され、1960年、1961年の国連総会でも議題として上程され、中国を非難する決議が採択された。

民主改革の実態について、以下にダライラマ法王の著書から、少し長くなるが引用しよう。

 

 「彼らは銃殺されたばかりでなく、死ぬまでむち打たれたり、はりつけにされたり、いきながら焼かれた。溺死させられたり、生きたまま解剖されたり、餓死させられた者もあった。絞め殺されたり、首をつって殺されたり、熱湯によるやけどで殺された。また、ある者は生き埋めにされたり、腸を取り除かれたり、首をきられたりして殺された。こうした殺人行為はいずれも公衆の面前でなされた。・・・(中略)・・・男も女も、自分の家族のものが強制されてみているその目の前で、ゆっくりと殺されていったのである。さらに小さな子供たちは、その両親を射殺するように強制されさえした。・・・(中略)・・・これら公然の殺人行為とは別に、大量の民衆が、残虐な強制労働と窮乏から死んだそして、多くの人々が、絶望と悲惨な苦痛とから自殺した。男たちが追われてゲリラとなって山中に逃げ込んだとき、彼らの村々に残された婦人や子供たちは機関銃で殺された。15歳から、まだ母の胸に抱かれている乳児にいたるまでの、数千に及ぶ子供たちが、その両親から奪い去られ、二度と再び戻ってはこなかった。それに抗議した両親たちは投獄されたり銃殺されたりした。」

 

 こうした中でパンチェンラマ10世は、チベット人の指導者に十分な権限を与え、宗教の自由を保障し、チベット人の生活の改善などを求める7万語に及ぶ長大な意見書を毛沢東宛に提出した。今まで中国共産党の操り人形と思われてきたパンチェンラマの行動に中国側はショックを受けたようだ。しかし何ら改善されないことに失望したパンチェンラマは1963年、モンゴルへの亡命を試みたが途中で逮捕されてしまう。1964年10月、パンチェンラマはチベットの民衆が見ている前で、「チベットの独立は回復され、ダライラマ法王が玉座にお戻りになるでありましょう。法王の長寿を祈ります。」と語った。中共の怒りをかったパンチェンラマは拉致され、3週間にわたり裁判にかけられ、暴力を受け、侮辱された揚句、1978年まで北京で幽閉された。パンチェンラマ失脚後のチベット自治区準備委員会主席にはンガワン・ジグメが就任した。

 民主的な体裁を整えるため、中国共産党は1963年から1964年にかけて人民代表を選ぶ選挙を実施した。選挙と言っても立候補者は事前に中共によって準備されたものばかりであった。こうして301名の代表が選ばれ、それまでのチベット自治区準備委員会は1965年9月に正式にチベット自治区となった。主席にはンガワン・ジグメが就任した。

 実際のところ、チベット自治区はチベットの国土の半分を占めるに過ぎなかった。すでに1955年にアムド地方の大半が青海省として併合されていたが、さらに1960年には甘粛省に甘南チベット族自治州が設置され、1963年にはケンロチベット族自治州が設置された。さらに1966年から翌年にかけて四川省にアバ・チベット族チャン族自治州、ガンゼチベット族自治州、涼山イ族自治州ムリチベット族自治県が設置され、雲南省にはデチェンチベット族自治州が設置されていた。こうしてチベット固有の領土のうち半分が、中国の省内に併合されてしまったのである。

 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

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