概説 東トルキスタンの歴史B−遊牧ウイグル帝国
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西暦744年、遊牧ウイグル帝国が誕生した。当時ウイグル族の支配階級は9つの部族からなり、そのなかでヤグラカル氏が族長を務めていたことから、ヤグラカル王朝とも言われる。初代のカガンはクトルグ・ビルゲ・キョル・カガンである。747年には子の葛勒カガンが即位した。 葛勒カガンは勇猛果敢で、モンゴル高原からさらにアルタイ山脈や天山山脈にまで勢力を伸ばした。葛勒カガンは主に西方遠征に力を入れていたため、唐に進軍することはなく、 759年に三代目のテングリ・カガン(登里可汗)が即位。唐はまだ安史の乱の最中で、762年にウイグルは反乱軍の史朝義を討伐している。こうして遊牧ウイグル帝国と唐との間には友好関係が続いた。また子の時期にテングリ・カガンは唐からマニ教の僧侶4人を連れて帰り、ウイグル社会にマニ教が急速に広まるようになったという。それまでチュルク系社会で信仰されていたのはシャーマニズムであり、突厥時代に仏教が伝わったことがあるもののさほど浸透せずに突厥時代を通じて一貫してシャーマニズムが優勢であった。遊牧ウイグルの時代に始めて本格的にシャーマニズム以外の宗教が信仰されるようになったのである。また、今までチュルク系民族は遊牧社会であったが、テングリ・カガンの時代に宮殿を築き、都市に定住する生活様式が定着し始めたという。唐及びソグド人の影響であることは間違いない。 780年に親族のトン・バガ・タルカガンはクーデターを起こし、第四代目に即位した。これにより唐との間に緊張も起きたが、唐に使節を送り、その藩臣になることを申し出、唐から武義成功カガンに冊立された。第五代、第六代はそれぞれ忠貞カガン、奉誠カガンに冊立されている。 795年に奉誠カガンが死去すると、ヤグラカル氏の血統が断絶したため、エディス部族出身の将軍クトルグが第七代カガンに即位し、唐から懐信カガンに冊立された。懐信カガンはヤグラカル氏ではなかったが、一貫してヤグラカル氏の生まれであると自称し続けた。ここに血統を重視する遊牧民族の性格が見て取れる。803年に遊牧ウイグルは高昌に支配領域を延ばした。ウイグルの西遷により、タリム盆地のチュルク化が進む要因となった。 西暦840年に遊牧ウイグル帝国で内乱が起こり、これに介入したキルギスによって滅ぼされた。ウイグル民族はモンゴル高原を捨て、西へ南へと移住し、定住するようになった。遊牧ウイグル帝国の時代に、唐・ソグド文化の流入、マニ教の伝来、宮殿の建設、都市への定住化がといった現象が見られたが、帝国の滅亡でウイグル人がモンゴル高原から離れていったことから、ウイグル人の定住化は一層進むこととなった。
最盛期の遊牧ウイグル帝国の版図。西暦820年ごろ。モンゴル高原から東トルキスタン一帯が領土に含まれている。 |
東トルキスタンの歴史
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