概説 東トルキスタンの歴史E−カラ・キタイ
 

打倒中国共産党トップ

東トルキスタン編コンテンツ

東トルキスタンの概要・東トルキスタン編について

チュルク系民族国家について

アジアン・カルチャー・フォーラム 東トルキスタン

東トルキスタン関連リンク集

東トルキスタン関連図書

東トルキスタン超簡略史年表 2007/02/18

東トルキスタン超簡略近代史年表 2007/04/15

ウルムチ写真集@−ウルムチ市街 2007/04/22

ウルムチ写真集A−ウルムチ植物園 2007/05/04

東トルキスタンの民族構成  2007/05/05

東トルキスタンの行政区分 2007/05/27

ウルムチ写真集B-ウルムチ市内の公園 2007/07/16

天池写真集 2007/07/22

青い煌き ウズベキスタン写真展に行ってきました 2007/08/19

中国共産党の残虐行為D−東トルキスタン侵略 2007/09/12

ラビア・カーディルさん来日決定!! 2007/10/08

ラビア・カーディルさんについて 2007/10/28

ラビア・カーディルさん東京講演会参加レポート 2007/11/11

【投稿文】ウイグル代表ラビアカーディルさんの講演会 2007/11/24

世界ウイグル会議について2007/11/25

東トルキスタンの地理・地形 2007/12/23

 漢字文化圏である日本では、カラ・キタイのことを西遼と呼ぶのが一般的である。だが私は漢族による王朝でもなければ、中華を継承するわけでもない王朝、民族については、漢字を使わない名称が明らかになっていない場合を除き、なるべく漢字を使わない方針なので、当サイトでは西遼ではなく、カラ・キタイと呼ぶことにする。

 モンゴル系のキタイ(契丹)人は916年に遼という王朝(この王朝の国号は大契丹→遼→契丹→遼と変遷している)を築いたが、1125年にツングース系の金によって滅ぼされた。この遼王朝の領土は主にモンゴル高原なので、当サイトではこれ以上とりあげないこととする。

 1125年の遼滅亡後、西に逃れたヤリュート・タイシ(耶律大石)は、1132年にビシュバリグに首都をおく天山ウイグル王国を服属させ(滅亡させたわけではない)カラ・キタイ王朝を築いた。カラ・キタイの君主はグルハーンと称した。カラ・キタイは1134年にベラサグンに遷都し、1137年に東カラハン朝を服属させた。さらに北西のカンクリやキルギスの諸部族の征服と帰順に成功し、さらに天山、パミール高原を超えたフェルガーナ地方まで支配を及ぼした。1141年にはセルジューク朝との激戦にも勝利を収め、カラ・キタイは中央アジアに覇を唱えるようになった。ヤリュート・タイシ(耶律大石)は故地奪還を目論み、1143年に金へ遠征するが途中で病没した。

 ヤリュート・タイシ耶律大石が死去すると、妻のタプイェンが摂政を務め、1150年に息子のヤリュート・イリ(耶律夷列)が第2代のグルハーンに即位した。ヤリュート・イリは父のヤリュート・タイシと異なり、積極的に遠征を行わず、あまり主体性のない君主だったようである。

 ヤリュート・イリが1163年に亡くなると、姉のヤリュート・プスワンが摂政を務めた。だがヤリュート・プスワンはどうしようもない淫乱で夫の弟と不倫に没頭した挙句、1177年に夫を暗殺するに至った。これに激怒した夫の父により、ヤリュート・プスワンは暗殺された。

 この頃から、天山ウイグルとカラハン朝を服属させていたカラ・キタイも衰退に向かう。1177年に兄との後継者争いに勝利を収めて第3代グルハーンに即位したヤリュート・チルク(耶律直魯古)は人望がなく、暗愚な人物で、天山ウイグルとカラハン朝に独立されてしまう。1208年にはホラズム朝の侵攻の撃破に成功するが、1211年に家来のクチュルクのクーデターによって権力から引き摺り下ろされる。このとき天山ウイグル王国はカラ・キタイを見限ってチンギス・ハンのモンゴル帝国に帰順する。

 クチュルクは第4代グルハーンに即位し、一時はホータン、カシュガルを占領するが、1218年にモンゴル帝国の遠征軍がやってくると、カラ・キタイ領内のムスリム及び契丹人が雪崩をうってモンゴルに帰順し、こうしてカラ・キタイ王朝は滅亡した。クチュルクはパミール高原に逃亡するが、結局モンゴル軍に捕らえられ、殺害された。ムスリムがこぞってモンゴル帝国に帰順したのには、クチュルクがカシュガルやホータンの宗教指導者を自ら主催した宗教討論の席上、怒りに任せて拷問にかけるなどしたためムスリム住民からの反発を招いたことが原因として挙げられる。

 カラ・キタイの時代、天山ウイグル王国はカラ・キタイに服属していたのであって、滅亡したわけではない。また契丹人はごく少数で支配していたので、契丹人の言語・文化的影響力は東トルキスタンにはそれほど及ばなかった。それでもカラ・キタイは西方世界に強い印象を与えたようで、現在チュルク系言語、ペルシャ系言語、ロシア語では中国のことをキタイを語源とする単語で読んでいる(例えばウイグル語で中国をヒタイという)。

カラ・キタイの最大勢力範囲。白い部分はカラ・キタイに服属していた天山ウイグル王国。

 

東トルキスタンの歴史

@はじめに

A突厥

B遊牧ウイグル帝国

C天山ウイグル王国

Dカラハン朝

Eカラ・キタイ

Fモンゴル帝国と・チャガタイハン国

Gモグーリスタン・ハン国とヤルカンドハン国

Hジュンガル帝国

I清朝の東トルキスタン支配

Jヤクブ・ベクの政権と新彊省

K楊増新の安定期

L東トルキスタン・イスラム国

M「新彊王」盛世才

N東トルキスタン共和国

O暗黒の時代

 

 

 

 

 

 

 

 

 




100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!