概説 東トルキスタンの歴史H−ジュンガル帝国
 

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 ジュンガル帝国はオイラートというモンゴル系民族が支配した王朝である。現在のモンゴル国では少数民族と位置づけられているが、中華人民共和国では新疆ウイグル自治区のオイラートもモンゴル族に分類している。ジュンガル帝国は最後の遊牧帝国という詠嘆的な言われ方をしている。また、王族がチベット仏教を信仰していたことも特徴で、すでに長期にわたってイスラムが完全に浸透していた東トルキスタンで、異教徒が支配することになる。しかし1680年以降の東トルキスタンでは、住民の圧倒的多数はムスリムでありながら、ごくわずかな期間を除き異教徒による支配が現在に至るまで続くことになる。

 明の建国によって北方に退却を余儀なくされた元朝及びその後のモンゴル民族の動向については当サイトでは触れないこととする。チベットのラサに留学してダライラマ5世の弟子となっていたカルダンは、1670年に兄のセンゲが殺戮されたことを知ると、ジュンガルに戻り、オチルト・チェチェン・ハーンの助力を得て復讐をとげ、ジュンガルの部族長となる。その後オチルトと衝突し、1676年にイリ河畔でオチルト率いるホシュート軍を撃退した。カルダンはボショクト・ハーンと称し、これによりジュンガル帝国が始まった。

 1680年にジュンガル帝国はヤルカンド・ハン国を滅ぼし、瞬く間に東トルキスタン一帯に領土を広げた。1684年に西トルキスタンのタシケントを占領し、さらに1688年には外モンゴルに侵入し、相次ぐ戦争に立て続けに勝利を収め、ジュンガル帝国は短期間でモンゴル高原から東トルキスタン、そして西トルキスタンの一部にまたがる大帝国に変貌した。さらに1690年には内モンゴル北境で清軍のモンゴル部隊と戦って撃破し、さらに南下して赤峰市で清軍に大損害を与えて引き揚げた。

 当然ながら清の康熙帝はカルダンとの対決姿勢を明確にした。その一方カルダンが戦争に明け暮れ不在にしている最中に、カルダンの甥にあたるツェワンラブタンは東トルキスタンを制圧し、清に使いを送って康熙帝と連合した。

 1696年、清は東路軍、中路軍、西路軍からなる大部隊を率いて外モンゴル制圧を目指した。しかし行軍は困難を極め、東路軍と西路軍は戦わずして退却を余儀なくされた。同年6月13日、西方に退却していたカルダンのジュンガル軍は清の中路軍と遭遇し、大敗北を喫した。ジュンガル軍はほとんど全滅し、カルダンは少数の部下とともに脱出したが、アルタイ山中をさまよった挙句、1697年4月5日病死した(自殺という説もある)。それ以降、外モンゴルは清の支配下におかれる。

 カルダンの死後、ジュンガル帝国と清朝は20年ほど平和が続いた。しかし1715年にハミの帰属をめぐって両国関係は緊張した。1717年、ジュンガル軍はチベットに侵入し、ラサを占領。当時ダライラマに代わってチベットを支配していたラサン・ハーンを殺害した。こうしてジュンガル帝国はチベットを支配するようになる。翌年の1718年にチベット救援に来た清軍をジュンガル軍は全滅させた。だが1720年に再び清軍がチベットに攻め込むと、ジュンガル軍はあっさり撤退し、ジュンガル帝国によるチベット支配は3年ほどで幕をとした。康熙帝はいよいよジュンガルの本拠地である東トルキスタン制圧を目指したが、1722年、康熙帝は没した。 康熙帝のあとを継いで清の皇帝に即位した雍正帝はジュンガルと和平の方針をとる。

 ジュンガル帝国では1727年にツェワンラブタン・ハーンが死去し、子のガルダンツェリン・ハーンが即位した。1735年にジュンガル帝国と清朝は国境画定交渉を始めたが、雍正帝が死去して乾隆帝が即位するなどして交渉は長期化し、1739年にようやく協定が妥結した。

 1745年にツェワンドルジナムジャル・ハーンが即位したが、1750年に兄のラマ・ダルジャがクーデターを起こしてハーンを捕らえて両目をくり抜き、自らハーンになった。しかし今度は1753年に、ツェワンドルジナムジャル・ハーンの孫のダワチがラマ・ダルジャを襲って殺害し、自らハーンに即位した。こうしたジュンガル帝国内部の混乱に、清の乾隆帝はこれを好機とみなし、ジュンガル帝国に侵攻、1755年にジュンガル帝国は滅亡した。
 

 


 
 

東トルキスタンの歴史

@はじめに

A突厥

B遊牧ウイグル帝国

C天山ウイグル王国

Dカラハン朝

Eカラ・キタイ

Fモンゴル帝国と・チャガタイハン国

Gモグーリスタン・ハン国とヤルカンドハン国

Hジュンガル帝国

I清朝の東トルキスタン支配

Jヤクブ・ベクの政権と新彊省

K楊増新の安定期

L東トルキスタン・イスラム国

M「新彊王」盛世才

N東トルキスタン共和国

O暗黒の時代

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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