概説 東トルキスタンの歴史I−清朝の東トルキスタン支配
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ジュンガル帝国を滅亡させて東トルキスタンを制圧した清朝であったが、オイラート人の度重なる反乱や謀反に手を焼くことになる。業を煮やした乾隆帝は東トルキスタンでオイラート人への徹底的な大虐殺を行った。さらに清軍が持ち込んだ天然痘によってもオイラートの人口は激減した。現在、中国共産党が支配する新疆ウイグル自治区で、ウイグル族が約800万人いるがモンゴル族が15万人に過ぎないのは、乾隆帝時代の大虐殺によるものである。また、1759年から清朝は東トルキスタンを、新しく征服した土地という意味で新彊と呼んだ(まだこの時点では省ではない) 清朝はジュンガル帝国を征服すると、それ以上版図を拡大しようとはせず、近隣のコーカンド、タシケント、ブハラなどとは朝貢関係を維持した。東トルキスタン内ではイリに本拠地をおき、新彊各地に2万8千人の駐屯軍を置いた。清朝の東トルキスタン統治は民政や徴税などでは現地の有力者を官吏としてあたらせた。多くの点でジュンガル時代の政策が踏襲された。また地区行政では三種の制度が並行した。東部では内地と同じ州県制が志向され、北部ではモンゴルに適用していたシャクサ制、南部では現地の有力者に委ねるベク官人制という新彊独自の制度が適用された。18世紀後半から19世紀初頭にかけては、農業生産の拡大と人口増加が見られ、戦乱続きだったジュンガル時代とは打って変わって安定した時代がしばらく続いた。 1820年代ごろから清朝の弱体化に伴い、東トルキスタンの安定も揺らぎ始める。ジュンガル帝国滅亡の際にブルハーヌッディーンの一族はほとんど捕らえられていたが、孫にあたるジャハンギールが1826年にコーカンド・ハン国(チュルク系のウズベク人による国家)のムハンマド・アリー・ハーンの援助を受けてカシュガルを占領し、タリム盆地西部から清軍を一掃した。清朝は1828年にタリム盆地西部を奪還し、ジャハンギールを北京で処刑したが、財政難のため、ジャハンギールを支援したコーカンド・ハン国への懲罰行動は取れなかった。その後もジャハンギールの子孫たちは1860年代まで新彊への侵入を散発的に繰り返した。 清朝はコーカンド・ハン国との貿易を禁止し、清朝との交易で潤っていたコーカンド・ハン国経済に打撃を与えるつもりであったが、するとコーカンド・ハン国は1830年に一時的にカシュガルを占領した。清朝とコーカンド・ハン国との緊張は1835年、ジャハンギールに加担して逃亡したカシュガル住民の赦免と帰還及び没収財産の返還、新彊におけるコーカンド商人はコーカンド・ハン国が徴税権を得ること、などの清朝にとって一方的に不利な内容で合意し、決着を見た。 アヘン戦争により清朝はますます弱体化し、新彊の駐屯費を内地からの税収でまかなえなくなってしまった。1850年代には内地からの税収が途絶し、新彊の駐屯軍は衣服さえも整えられない悲惨な状況に追い込まれた。それをまかなうためにコーカンド商人からの臨時課税、人頭税、強制寄付などが行われ、これに反発する蜂起が散発するようになった。 内地が大変天国の乱で混乱を極めていた1862年、漢族と回族の間で大規模な虐殺が起こり、特に「洗回」と呼ばれる大量虐殺があちこちで頻発した。新彊でも洗回のうわさが広まり、不穏な空気が流れた。1864年にクチャで回民と現地ムスリムが共同で反乱を起こしたのをきっかけに、イリ、カシュガル、ウルムチ、ヤルカンド、ホータン、タルバガダイ、などでスーフィー(宗教指導者)を中心とする大規模な反乱が発生した。そのうち、カシュガルの反乱軍はコーカンド・ハン国の実力者に援軍を要請した。コーカンド・ハン国の実力者アーリム・クリはこれに応じて、ジャハンギールの息子のブズルグ・ハーンとコーカンドの軍人ヤクブ・ベクを派遣した。一行は1865年始めにカシュガルに到着した。
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東トルキスタンの歴史
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