概説 東トルキスタンの歴史K-楊増新の安定期
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北京で辛亥革命が勃発し、宣統帝が退位すると、新彊省政府は政権を放棄した。その一方でイリでは辛亥革命の影響を受けた革命派が軍事政権を樹立していた。この軍事政権はムスリムの反乱ではなく、漢族中心によるものである。ウルムチ地区の知事であった楊増新は、新彊の政治と軍事の実権を握り、イリの軍事政権とも交渉によって自派に取り込むことに成功した。 新彊は清朝末期に北京政府の関与が強まっていたが、辛亥革命をきっかけに新彊は半独立状態となる。楊増新は清朝時代に統治政策を概ね踏襲する内政政策をとった。楊増新はカザフ人部族長らに郡王、ベイセ、タイジ等の清朝の称号を与え、彼らを懐柔する一方ムスリムの宗教と習慣に慎重に配慮した。 当時中国は軍閥が乱立する戦国時代であったため、楊増新は独自の外交を行った。ロシア国境地帯の華僑の保護権や、英露商人の納税問題等で、中国側の権益を確保しただけでなく、ロシア革命後は、ソビエト政権の承認と引き換えに通商条約の平等化を要求、またイギリスに対しても最恵国待遇の削除を要求した。 楊増新は独裁的で反対派を弾圧した側面はあったものの、中国が大混乱をきたすなかで東トルキスタンに17年間の安定をもたらした。賄賂の廃止や財政改革などにも努めた楊増新の政治手腕は近年改めて再評価されている。楊増新は1928年に暗殺された。
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東トルキスタンの歴史
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