概説 東トルキスタンの歴史M−「新彊王」盛世才
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1897年生まれの盛世才は日本に計3度の留学を果たしているものの、当時の複雑な国際情勢を背景に徹底した反日主義者になったという。1930年に新彊省の軍官学校の教官を勤めていた盛世才は1934年4月のクーデターをきっかけに新彊省政府内で実権を掌握した。6月には自分に対するクーデター計画が発覚し、首謀者を一斉に粛清した。8月1日には国民政府から新疆辺防督弁に任命される。12月には新彊省政府主席であった劉文龍を軟禁して、朱瑞?を政府主席に据えたが、1934年3月に朱瑞?が病没すると、自ら新疆省政府主席に就任した。また東トルキスタン・イスラム共和国政府と接触し、大統領のホージャ・ニヤズを省政府側に寝返らせ、新彊省の副主席に任命し、チュルク系ムスリムとの融和姿勢をはかった。 1934年4月、「民族平等の実施、信教の自由の保障、農林業の救済、財政の整理、官僚の綱紀粛正、教育の拡充、自治の実施、司法の改革」からなる「八大宣言」を公布。1935年には、東トルキスタン土着のチュルク系民族名として「ウイグル」を採用することを決定(1921年にソ連のアルマアタで開催された会議で決定されたもの)、漢語表記も定められた。1936年には「日本帝国主義の侵入を防ぐ」という名目で新彊省への入境に査証を義務化し、新彊を事実上独立国家のように統治した。そのため、盛世才は「新彊王」と呼ばれている。 盛世才は親ソ連的な政策をとったが、1937年12月にコミンテルンの要因を逮捕し、中国共産党の幹部を招聘した(その中には毛沢東の弟毛沢民も含まれる)。1939年にソ連を訪問して自らソ連共産党に入党するなど、ソ連との関係は維持したが、1940年には再びソ連の要因を逮捕している。1942年にはソ連との関係に見切りをつけ、国民党に忠誠を誓い、1943年には毛沢民ら共産党幹部を粛清した。 1944年9月に国民政府の圧力に屈し、重慶の農林部長に就任する名目で新彊を離れることになった。後任には呉忠信が就任した。こうして10年に及ぶ新彊王の統治は終焉した。
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東トルキスタンの歴史
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