概説 東トルキスタンの歴史N−東トルキスタン共和国
|
||
東トルキスタン編コンテンツ 東トルキスタン超簡略史年表 2007/02/18 東トルキスタン超簡略近代史年表 2007/04/15 ウルムチ写真集@−ウルムチ市街 2007/04/22 ウルムチ写真集A−ウルムチ植物園 2007/05/04 東トルキスタンの民族構成 2007/05/05 東トルキスタンの行政区分 2007/05/27 ウルムチ写真集B-ウルムチ市内の公園 2007/07/16 天池写真集 2007/07/22 青い煌き ウズベキスタン写真展に行ってきました 2007/08/19 中国共産党の残虐行為D−東トルキスタン侵略 2007/09/12 ラビア・カーディルさん来日決定!! 2007/10/08 ラビア・カーディルさんについて 2007/10/28 ラビア・カーディルさん東京講演会参加レポート 2007/11/11 【投稿文】ウイグル代表ラビアカーディルさんの講演会 2007/11/24 世界ウイグル会議について2007/11/25 東トルキスタンの地理・地形 2007/12/23 |
1944年10月、東トルキスタン北部でカザフ人が中心となり、アルタイ民族革命臨時政府が樹立された。イリ地区では1944年10月と11月にイリで蜂起が発生し、11月12日、東トルキスタン共和国の建国が宣言された。東トルキスタン共和国の臨時主席にはウズベク人宗教学者イルハーン・トラが就任、副主席にはクルジャの名家出身の有力者アキムベク・ホージャが就任した。東トルキスタン政府の要職にはソ連国籍のロシア人やチュルク系民族が多く占めていたという。 1945年10月からソ連の仲介により東トルキスタン共和国政府と中国国民政府との間で和平交渉が開始された。東トルキスタン側は交渉が国家間のものであることを主張したが、ソ連によって受け入れられなかった。ソ連は共和国主席アリハーン・トラを拉致するにいたり、1946年6月には東トルキスタン共和国は自主的解散を余儀なくされ、7月に新彊省連合政府が発足、共和国の実力者であったアフマドジャンが副主席、アッバーソフが副秘書長に就任した。 1949年8月、国共内戦で勝利目前であった中国共産党の毛沢東は、イリの東トルキスタン共和国政府首脳に書簡を送り、北京で開催される政治協商会議への出席を促した。東トルキスタン政府の有力者は飛行機でソ連を経由して北京に向かう予定だったが、ソ連滞在中に殺害された。以前は飛行機がバイカル湖近くで墜落したとされていたが、ソ連崩壊後に公開された資料によって、事実が明らかになった。こうして東トルキスタンの有力者のほとんどが死んでしまう。 イリに残されたセイフディン・エズィズィは急遽北京に向かい、9月に開催された全国政治協商会議にし出席し、中国共産党の指導に服することを表明した。こうして東トルキスタン共和国政府は5年弱の歴史に幕を閉じた。 中国共産党は、東トルキスタン共和国建国運動が、アルタイ、イリ、タルバガダイの三地区で発生したことから「三区革命」と称し、人民による革命闘争として評価している。実際には東トルキスタン共和国は中国からの独立を目指したものであり、敬虔なムスリムである彼らの運動は中国共産党とは全く相容れないものであるが、中国共産党はその事実を隠し、自らに都合の良い解釈(というより捏造)を行っているのである。 東トルキスタン共和国初代主席のアリハーン・トラは、ソ連に拉致された後、1976年に91歳で死去した。中国共産党への服属を表明したセイフディン・エズィズィは1949年10月に中国共産党に入党。その後も中国共産党の要職を歴任し、2003年、88歳で北京で死去した。
|
東トルキスタンの歴史
|