概説 東トルキスタンの歴史O−暗黒の時代
 

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 ソ連の陰謀により有力者をほとんど失っていた東トルキスタン共和国政府は、1949年9月にセイフディーン・エズィズィが北京の全国人民政治協商会議に出席し、中国共産党政権への服属を表明していた。また、ウルムチの新彊省政府も9月26日に中国共産党への服属を表明した。10月1日、北京で中華人民共和国の建国が宣言された。

 1949年12月には人民解放軍がイリ地区に進駐した。その一方で東トルキスタン政府と袂を分かった勢力がしばらく武力による抵抗を続けたが、1951年4月までに概ね終息した。1952年秋に土地制度改革が実施され、モスクの財産を没収し、イスラーム法廷などの伝統的な制度が次々と廃止された。1955年10月、新疆ウイグル自治区が成立した。

 こうして東トルキスタンはその歴史上最も過酷で悲惨な時代を迎えることとなった。中国共産党に占領されてからの30年、これほどまでに大規模な虐殺、拷問、破壊が行われたことはかつてなかった。長い歴史を有し、様々な民族が割拠し、多様な優れた文化を生み出してきた東トルキスタンがまさに地獄と化した時代であった。

 1952年の土地改革の名のもとに、多くのウイグル人が土地や財産を略奪された。さらにインテリ、教師、医者などが人々の前で公開処刑された。約30万人のウイグルが弾圧された。

 1955年にジュンガル盆地の砂漠で大規模な油田が発見され、カラマイという人工都市を建設して資源の盗掘に乗り出した。人口で中国共産党支配地域の1%程度に過ぎない東トルキスタンは、石油、天然ガス、石炭などの資源では3分の1を占めている。

 1956年、中国共産党は「百花斉放 百花争鳴」運動を全国で実施した。これは一言で言えば中国共産党への批判を容認、奨励するもので、毛沢東は「中国共産党は反対意見や批評を歓迎する、批評者を歓迎する、"絶対報復しない」と誓っていた。新彊ではウイグル人の間から「東トルキスタン」や「ウイグリスタン」を名乗る要求や、分離独立の主張などが頻出した。これに対し、1957年に全国で実施された反右派闘争によって「地方民族主義者」とされたウイグル人15万人が逮捕され、多数が虐殺された。

 その後に中国共産党が発動した大躍進運動で全国規模の飢餓が発生し、1959年にカザフ族が大量にソ連に亡命する事態が発生した。1962年にも6万人のカザフ族が亡命し、1970年までに計20万人のチュルク系民族がソ連に渡ったという。

 1964年に中国共産党はロプノールで初の核実験を行った。環境を顧みずに行われた核実験は1995年までに計46回にのぼり、これにより深刻な土壌汚染が起き、周辺の住民で生まれた新生児が障害者となる例が多発した。

 1966年に文化大革命が開始されると、同年8月に紅衛兵が新彊に入り、モスクを次から次へと破壊し、コーランを焼却し、宗教指導者を拘束して引きずり回すなどの拷問を行った。また、ウイグル人にブタを飼育させたり、強引に豚肉を食べさせるなどの卑劣な残虐行為が行われた。イスラム教徒が豚肉を食べるのは、非イスラム教徒がゴキブリを食べるのに匹敵する苦痛である。新彊ウイグル自治区の王恩茂共産党書記は、ソ連と国境を接する地域での文革発動に危険を感じ、自前の紅衛兵を組織したが、北京から来た紅衛兵との大規模な武力闘争に発展し、混乱と悲劇を強める結果となった。新彊でもチベットでも、そして中国全域で虐殺、破壊、拷問の嵐が巻き起こった10年間であった。

 1978年の改革解放により、大規模な無差別大量虐殺の時代は幕を閉じた。それでも中国共産党による弾圧、拷問はたびたび起きている。ほんの一例を挙げれば1997年にグルジャで起きた平和的なデモ行進で数千人が拘束され、喉に電気棒をぶちこんだり、手足の爪を剥ぐなどの拷問が行われた。そのほかにも中国人の大量移住、一人っ子政策による強制避妊など、問題は数多い。

 90年代半ばに中国十大富豪に数えられ、全国政治協商会議の委員を務めたラビア・カーディルさんは中国共産党の新彊統治を厳しく批判したため、解任され、財産を没収され、懲役8年の刑を言い渡された。現在はアメリカに亡命し、中国の新彊政策を批判している。ラビアさんは政治、経済両分野で大成功を収めた人物であるがゆえに、その発言には説得力がある。

 その一方で改革解放以後の新彊では目覚しい経済発展と開発を遂げたことも事実であり、最近30年間の中国共産党の統治には評価できる部分も存在することは否定できない。イスラムなどの伝統文化の復興、交通インフラの整備、教育の拡充、医療の整備、産業の振興、生活水準の向上など発展した分野は多岐に渡る。
これら正の面と負の面をどのように評価するかは、本来ならばウイグル人などの土着民族が判断すべきことだが、言論・報道の自由がいまだに確立されていない中国共産党政権化では不可能なのが現状である


 

東トルキスタンの歴史

@はじめに

A突厥

B遊牧ウイグル帝国

C天山ウイグル王国

Dカラハン朝

Eカラ・キタイ

Fモンゴル帝国と・チャガタイハン国

Gモグーリスタン・ハン国とヤルカンドハン国

Hジュンガル帝国

I清朝の東トルキスタン支配

Jヤクブ・ベクの政権と新彊省

K楊増新の安定期

L東トルキスタン・イスラム国

M「新彊王」盛世才

N東トルキスタン共和国

O暗黒の時代

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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