青い煌き ウズベキスタン写真展に行ってきました

 今横浜関内のユーラシア文化館で「青い煌き ウズベキスタン」写真展が開催されている。地元ということもあるし、広い意味でのチュルク系文化を勉強するいい機会になると思い、行ってみることにした。地下鉄みなとみらい線日本大通り駅の出口を出て徒歩5秒でユーラシア文化館の入り口がある。とはいっても私はJR関内駅から十数分ほど歩いたので、猛暑のため汗だくになってしまった。
チュルク系民族といえば遊牧民というイメージがあるかもしれないが、ウズベク族とウイグル族は農耕定住民という点で共通している。両者の違いといえばなんといっても外来文化の影響であろう。歴史的にタジク族と共存してきたウズベク族はペルシャ文化の影響も大きく、語彙の中にもペルシャ系言語の影響が垣間見られる。さらに近代に入ってからはロシア文化の影響も見逃せない。ウイグル族のほうは、モンゴル人、中国人の支配を受けた歴史が長い。
 ウズベキスタンは中央アジア5カ国で最大の人口を誇り、世界のチュルク系国家の中ではトルコに次ぐ人口である。チュルク系国家はいずれも侵略による外来文化の影響を強烈に受けてきたが、ヨーロッパに近いトルコ、中国に近い東トルキスタン、旧社会主義国特有の地味さが残る他の中央アジア諸国などと比べると、ウズベキスタンはもっともチュルク人らしさを残していると言えるかもしれない。ウズベキスタンはかつてシルクロードの要衝であったサマルカンド、タシケント、ブハラなどを抱え、観光資源も豊富な魅力的な国である。
 そんなウズベキスタンも、東トルキスタンに好意的かというとそうでもなさそうだ。21世紀に入って、旧ソ連諸国ではキルギス、グルジア、ウクライナなどで立て続けに民主革命が起こり、北朝鮮に次ぐ個人崇拝国家であったトルクメニスタンでも2006年12月にニヤゾフ大統領が死去した。そんな中でウズベキスタンはカリモフ大統領の独裁政治が健在で西側諸国から強い非難を受けている。上海協力機構加盟国でもあり、政治的にはロシアよりも中国の影響力が強まっている。
 それでも私はウズベキスタンを含む中央アジア諸国には一定の親しみと期待を忘れていない。これら中央アジア諸国の存在そのものがウイグル人にとっては希望の灯火でもある。キルギスの民主化もウイグル人には希望を与えたかもしれない。

ウズベキスタン基礎データ
面積 447,400km2 世界第55位
公用語 ウズベク語
首都 タシケント
最大の都市 タシケント
大統領 イスラム・カリモフ
首相 シャヴカト・ミルズィヤエフ
人口 26,410,416人
人口密度 59人/km2

民族構成 ウズベク人80%、ロシア人5.5%、タジク人5%、カザフ人3%、カラカルパク人2.5%、朝鮮人1%

GDP 110億ドル 世界第98位
1人当りGDP1,700ドル  世界第72位
独立 1991年9月1日
通貨 スム(UZS)

簡略史
8世紀 イスラム帝国に征服され、この地域がイスラム化する。
10世紀 チュルク民族が進出し、チュルク化が進む
13世紀 モンゴル帝国に征服され、都市が破壊される。
14世紀 ティムール朝が中央アジアから西アジアに至る広大な地域を征服して大国家に発展した。
1370 ティムール帝国成立
1503年 ティムール帝国滅亡
16世紀前半 ウズベク3ハン国と呼ばれるブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国が成立
1868年 ロシア帝国がブハラ・ハン国の軍事、外交権を掌握。
1873年 ロシア帝国がヒヴァ・ハン国を保護国とする。
1876年 ロシアがコーカンド・ハン国を滅ぼす。
1917年 ロシア革命
1924年 ウズベク・ソビエト社会主義共和国成立。現在のウズベキスタンの境界が画定する。
1990年 イスラム・カリモフが大統領に就任。
1991年 ソ連崩壊によって独立。
1992年 カラカルパクスタン自治共和国が共和国に格上げされる。
2000 上海協力機構に初参加。
2001 年米軍駐留(2005年に撤退)
2005 民主化運動を弾圧


ウズベキスタンの世界遺産(いずれも文化遺産)
ヒヴァのイチャン・カラ - (1990年)
ブハラ歴史地区 -(1993年)
シャフリサブス歴史地区 - (2000年)
サマルカンド‐文化交差路 - (2001年)

ユーラシア文化館  

 

3階企画展示室

 

 




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