東トルキスタンの民族構成

 世界中のほとんどの国々がそうであるように、東トルキスタンもまた多民族国家である。東トルキスタンは中央アジアの東部に位置し、カザフスタンやキルギスのような他の中央アジア諸国と同じく、多種多様な民族が興亡を繰り返し、支配領域(近代以前の中央アジアについて明確な『国境』なる概念は極めて希薄であったと思われる)が様々な変遷を遂げた複雑な歴史を持っている。東トルキスタンの民族構成は他の中央アジア諸国とある程度共通する特徴を持っているといえると同時に、最も東に位置する、すなわち最も中国に近いという地理的条件によって他の中央アジア諸国と異なる特徴をも有している。今回は東トルキスタンの複雑な民族構成について述べることとしたいが、当サイトは学問を追及したものではないし、一人でも多くの日本人に東トルキスタンについての関心を広げてもらう目的で書いているので、初歩的な水準を脱し得ないことはご了承いただきたい。
 
 
ウイグル族
 ウイグル族は言うまでもなく東トルキスタンの主要民族である。東トルキスタン国内に835万人が居住し、同国の人口の45%を占めている。最近では中国本土にも少なからずのウイグル人が移住している。また、19世紀後半以降に中国の支配を嫌って近隣諸国に移住したウイグル人もおり、カザフスタン共和国内には約20万人が居住し、キルギスやウズベキスタン国内にも少数ながら居住している。
 現在の中華人民共和国支配領域内では6番目に人口の多い民族であり、その人口や居住範囲の広大さから中国政府は彼らの居住地域を省とはせずに1955年に新疆ウイグル自治区を設置した。
 ウイグル族は紛れもなく、かつての大遊牧帝国を築いた突厥の子孫である。突厥帝国滅亡後も744年に遊牧ウイグル帝国(ヤグラカル王朝)を築き、さらに9世紀後半には天山ウイグル王国を築き、未曾有の繁栄を築き上げたのである。ウイグル族がトルファンに築いたかつての栄華を忍ばせる数々の遺跡群はあまりにも有名である。10世紀頃からイスラムを受容し、13世紀にはウイグル文字を捨ててアラビア文字を使用し、15世紀までにほぼ全てのウイグル族がイスラム教徒となって今日に至っている。13世紀以降はモンゴル帝国、チャガタイ・ハン国、ティムール帝国、ジュンガル帝国などのモンゴル系王朝の支配化に長く置かれたが、ウイグル族がこの地域の多数派民族であったことには変わりはない。
 ウイグル族は長い間固有の民族名称を持たずに来たと言われている。ウイグルという名称自体は古代の王国にその起源を持つし、甘粛省に居住するチュルク系民族はずっと以前からウイグル族を名乗ってきたが、ウイグル族が自らをそう呼ぶようになったのは1921年にタシケントで開かれた東チュルク系民族会議で決定されてからである。この事実は人為的に新たな民族が想像されてアイデンティティーを強要されたことを意味するものではなく、もともと漠然とながらも、しかしながら人類学的にははっきりと他民族と区別が可能な一民族に対しての正式な呼称が与えられたに過ぎない。
 
 カザフ族
 カザフ族の全人口はユーラシア大陸全体で約一千万人に達し、人口の上ではウイグル族よりも多いであろう。15世紀にカザフ・ハン国を築いて絶頂期に達し、16世紀には現在のカザフスタンとほぼ同じ領域に分布するようになって今日に至っている。
 東トルキスタン国内には125万人が居住し、人口の6.7%を占めており、土着民族の中ではウイグル族に次ぐ重要な地位を占めている。主に東トルキスタン北部に集中し、イリ・ハザク自治州、アクサイ・カザフ族自治県、バルクル・カザフ自治県、モリ・カザフ自治県が設置されている。チュルク系民族国家のほとんど全てが独立国家であろうとロシアやウズベキスタンの連邦を構成する非独立の共和国であろうと、いずれもその国内で最も主要な民族名を国家の名称に用いているにも関わらず、東トルキスタンがウイグル族の名称を用いてウイグリスタンという名称を積極的に用いなかった背景として、同国内のカザフ族の存在が無関係とは言えないかもしれない。
 ウズベキスタン共和国内にも75万人が居住。モンゴル国内にも西部に居住し、バヤンウルギー県ではカザフ族が多数派を占めている。カザフ族の民族国家であるカザフスタン共和国は1991年にソ連崩壊によって独立を果たし、人口は約1600万人、そのうちの約54%がカザフ族である。

 キルギス族
 キルギス族についてはすでに『史記』に堅昆としてその名が記されている。であるとするならばキルギス族は中央アジアのチュルク系民族の中でも圧倒的に古い歴史を持っていることになる。キルギス族の先祖はインド・ヨーロッパ系であるという説もあり、そういう意味では他のチュルク系民族とは一線を画している。その一方で現在のキルギス族は遊牧民族であること、厳格な母音調和システムを持つこと以外はカザフ語と良く似た言語を話すという特徴などから紛れもなくチュルク系民族の一つを構成する存在となっている。また、ロシア連邦内のハカス共和国のハカス人と親縁関係にあるとされているが、現在では言語学的にはカザフ語により近い。
 9世紀にはウイグル族と激しく争い、遊牧ウイグル帝国を滅亡に追いやったこともある。13世紀にはモンゴル帝国に服属し、その後はジュンガル帝国に服属している。イスラム化は他のチュルク系民族よりも圧倒的に遅く、17世紀になってからのことである。そのため、キルギス族の宗教にはシャーマニズム的要素を色濃く残されていると言われている。
 
 ウズベク族
 ウズベク族は東トルキスタン国内においては少数派だが、中央アジアでは極めて存在感の高い民族である。ウズベク族の全人口は2千万人を超え、中央アジアのチュルク系では最大である(チュルク系全体ではトルコ共和国のトルコ人が一番多い)。ウズベキスタン共和国に2000万人が居住し、人口の80%を占めている一方で、タジキスタンに100万人(人口の15%)、キルギスに70万人(12%)、カザフスタンに40万人(2.5%)、トルクメニスタンに25万人(5%)が居住しており、アフガニスタンにおいても100万人以上が居住している。旧ソ連時代にはソビエトで3番目の人口を誇る言語集団でもあった。
 古都サマルカンドはかつてのホラズム朝やティムール帝国の首都としてあまりにも有名であるが、ウズベク族自身もブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、フェルガナのコーカンド・ハン国を築いた歴史を持っている。1991年に独立したウズベキスタン共和国は面積ではカザフスタンには劣るもものの、人口や経済力では中央アジア最大である。現在のウズベキスタン共和国では、マルクス・レーニン主義の影響で現在の国境を厳密に重視した歴史観を採用しており、かつてサマルカンドを首都に置いたティムールを、民族的に見れば征服者であるにもかかわらず、民族最大の英雄として祀り上げている。
 ウズベク族はその歴史においてペルシャ系のタジク族と深い関わりを持ってきた。現在でもサマルカンドの住民の多くはウズベク語とタジク語のバイリンガルであると言われている。ウズベク語自身もタジク語の多大なる影響を受け、母音体系や子音体系は他のチュルク系言語とは異なったものとなり、タジク語とは二次的な類似が見られるようになっている。また、幾多の文明大国に支配されたり、自ら文明大国を築き上げてきたりしてきたウズベク族の大半は遊牧ではなく定住生活を営んでいるという点でも他のチュルク系民族とは異なっている。
 東トルキスタンでは1万2千人と少数派に留まっている。

 タタール族
 かつてタタールと言う語は時代と地域によって、ツングース系、モンゴル系、チュルク系など様々な民族の呼称として用いられてきた。中国においても民国時代初期においてはチュルク系民族全体を差してタタールと呼ばれていた。現在ではロシア連邦内のタタールスタン共和国の主要民族、ウクライナ共和国内のクリミア自治共和国内の主要民族、東トルキスタン国内の少数民族に対する名称として用いられている。
 明らかに異なる民族に対して歴史的にタタールと呼ばれてきた民族について、このページで取り上げる必要があるとは思わない。タタールという呼称が指し示す対象がある程度固まったのはロシア帝国の東方拡大以降である。今日のいわゆるタタール族は13世紀のキプチャク・ハン国の時代に形成されたと言われている。16世紀には入るとロシア帝国の支配下に入り、文化的にもロシア化が進んだが、18世紀に入るとロシア帝国はタタール人の「先進性」(ここでいう先進性とは他のチュルク系民族よりもロシア化が進んでいるという意味)を重視し、タタール人を優遇するようになった。19世紀後半にはロシア帝国内ムスリムの自治拡大運動や民族運動において主導的役割を果たすようになり、一部は東トルキスタンにまで進出した。今日、東トルキスタン国内のカザフスタン国境近くに4500人のタタール族が居住している。
 
 サラール族

 サラール族は中華人民共和国支配領域内に計11万人が居住している。サラール族の主な居住地域は青海省循化サラール族自治県と化隆回族自治県甘都郷である。東トルキスタン国内には約3500人が居住している。サラール族はほとんどがイスラム教徒である。サラール族の民族的特徴は一言で言えばウイグル族と同じ民族ということだ。中国政府によって個別の一民族に分類されているが、言語学的、文化人類学的に見れば間違いである。ウイグル族とサラール族を区別するものはその歴史と居住地域である。彼らは14世紀以来東トルキスタンから離れ、青海省東部で暮らしている。

 漢族
 東トルキスタンの歴史において、漢族、いわゆる中国人はインド・アーリア系やモンゴル系やペルシャ系やチュルク系の民族に比肩しうるぐらいこの地域に関わりを持ってきた。古くは西暦前102年に前漢が匈奴との争いでタリム盆地にまで進出しているし、唐朝の最盛期にはその影響力は東トルキスタンを通り越してカザフスタン中部にまで及んでいる。唐朝滅亡後、五代、宋、明などの漢族王朝はこの地域にまで進出する国力を持たず、主にチュルク人とモンゴル人が攻防を繰り返すようになる。かつては仏教文化が栄えたこの地は、15世紀には完全にチュルク系のイスラム文化が主流となっていた。
 満州族が支配する清朝が18世紀にジュンガル帝国を滅ぼすと、東トルキスタンは再び中国王朝の支配化に入ることとなる。
 だが漢族が本格的に東トルキスタンでの影響力を強めるきっかけとなったのは、言うまでもなく1949年の中華人民共和国建国直後の東トルキスタン併合である。東トルキスタンでは1943年から独立国家が運営されていたが、中華人民共和国に対抗しうる力がないとの判断から、中国共産党は激戦を交わすことなく東トルキスタンの併合に成功した。
 それ以来、漢族が東トルキスタンの支配民族となり、政治、経済、教育など様々な分野で中国語が主要言語となり、今まで東トルキスタンの主要民族であったはずのウイグル族は中華人民共和国という枠組みの中で少数民族としての扱いを受けるようになった。特に1990年代以降は漢族の大量入植が目まぐるしく、人口の40%を占めるほどで、遠からず漢族が東トルキスタンの最大多数民族となると予想されている。当然のごとく、多くの経済活動、インフラ開発などにおいてもはや漢族なしには何も語れないほどになっている。

 モンゴル族
 アルタイ語族について考えるとき、モンゴル系の存在は極めて重要である。モンゴル系は地理的にツングース系とチュルク系の中間に位置するだけでなく、言語学的にもツングース系とチュルク系の中間に位置する特徴を持っているからである。ツングース、モンゴル、チュルクの3系統を合わせてアルタイ語族と呼ぶのが一般的だが、これら3系統の関係は、インド・ヨーロッパ語族やシナ・チベット語族やセム・ハム語族ほどに明確ではなく、一つの語族を形成することに疑問をはさむ言語学者も少なくないため、語族ではなく、アルタイ諸語とも言われる。これらアルタイ語族の3系統の関係を明瞭にするためにもその中心に位置するモンゴル系言語の研究が今後ますます重要になって行くものと思われる。
 モンゴル族はモンゴル国という独立国家を運営しているほか、ロシア連邦内のブリヤート共和国とカルムイク共和国において主要民族となっている。中華人民共和国では内モンゴル自治区という民族自治区が設けられているが、モンゴル族の占める割合は20%程度であり、主要民族と言うにはほど遠い。にもかかわらず内モンゴル自治区のモンゴル族の人口は約400万人に達し、モンゴル国よりも多い。
 ユーラシア大陸の広大な地域で興亡を繰り返してきたモンゴル人の分布は広範囲に広がっており、中華人民共和国内でも黒龍江省、吉林省、遼寧省、河北省、甘粛省、青海省に自治州や自治県を持っている。東トルキスタン国内にはパルタラ・モンゴル族自治州、バインゴリン・モンゴル族自治州、コブクサル・モンゴル族自治県などが設けられ、約15万人が居住している。東トルキスタンにおけるモンゴル族の役割の大きさを考えれば、人口比1%未満というのはあまりにも少ない。これは18世紀の乾隆帝の時代にジュンガル帝国が清朝に滅ぼされたあともオイラト族が清朝によって徹底的に虐殺されたことが大きい。
 東トルキスタンのモンゴル族はより厳密に言えば、ロシアではカルムイク人としてモンゴル人とは区別され、モンゴル国でも西モンゴル人として少数民族とみなされているが、中華人民共和国では内モンゴルのモンゴル族と同一民族として分類されている。特に近年、東トルキスタンのモンゴル族はそのアイデンティティーをより強固にし、内モンゴルのモンゴル族との一体化を目指していると言う。
 

 ダフール族
 中華人民共和国支配領域内に13万2千人が居住。モンゴル族とは異なる独自性を持っているが、彼ら自身はモンゴル族の一部という認識を持ってきた。乾隆帝の時代に駐屯兵として東トルキスタン北部に派遣され、その末裔約5500人がタルバガタイ地区に居住している。

 トンシャン族
 トンシャン族はモンゴル系の民族だが、イスラム教徒であることが他のモンゴル系民族と決定的に異なっている。中華人民共和国支配領域内に51万人、東トルキスタン国内に5万6千人が居住している。

 回族
回族は中華人民共和国支配領域内の広範囲に分布する民族であり、中央アジア諸国にも少数が居住し、ドンガン(東干)人と呼ばれている。東トルキスタン国内では新昌回族自治州のほか、各地に居住しており、人口は84万人。東トルキスタンで4番目の民族である。

 タジク族
 タジク族はペルシャ系の民族であり、より広い分類ではインド・ヨーロッパ語族に分類される。ペルシャ系民族の中でも、中世から特に中央アジアのオアシス定住民をタジクと呼んでいた。タジク人が最も多く居住する国はアフガニスタンであり、人口の3割を占める約850万人が居住している。タジキスタン共和国内に約560万人が居住するほか、ウズベキスタンに130万人が暮らしている。現在ではタジク族とウズベク族はそれぞれ別個の独立国家を運営しているが、歴史的には両民族は明確な境界を持たずに入り混じって生活していた。言語学的には全く異なる民族であるが、文化、言語の面で互いに深く影響しあっている。
 イランのペルシャ系民族との決定的な違いは、イラン人はイスラム教シーア派が主流であるのに対し、中央アジアのタジク人はチュルク系民族と同じくスンニー派が主流である。アフガニスタンのタジク人はスンニー派もシーア派もいる。東トルキスタンのタジク人は、東トルキスタンや中国では珍しいシーア派が主流である。
 東トルキスタンでは約4万人が、同国最西端のタシュクルガン・タジク族自治県に居住している。現在では東トルキスタンがまとめて中華人民共和国に編入され、なおかつ北京が標準時刻になっているため、夏には夜10時になってもまだ明るい、冬には朝10時になってもまだ暗いという現象が起きている。

 ロシア族
 言うまでもなくロシア人である。中華人民共和国、及び東トルキスタンの少数民族として述べるときは、中国語の発音からオロス族と称することもある。ロシア連邦内のロシア人についてここで述べる必要があるとは思わない。東トルキスタン国内に移住するようになったのは18世紀末から19世紀にかけてである。現在9千人のロシア族が居住している。

 満族
 ツングース系民族の中では人口が最大である。東トルキスタン国内には約2万人が暮らしている。

 シボ族
東トルキスタンにとっても、そして今現在東トルキスタンを実効支配している中華人民共和国にとっても、シボ族の存在は極めて重要である。900万人の満族はすでにほぼ全員が独自の言語、文化を失ってしまっている。1764年に清朝によって辺境守備のために派遣された約3000人のシボ族の末裔約3万4千人がイリ・ハザク自治州察布査尓シボ族自治県に居住している。彼らは満族の言語、文字、文化を継承した希少な民族集団であり、彼らの言語、文化を存続させ、発展させることが中華人民共和国政府にとっても、将来独立を勝ち取った後の東トルキスタン政府にとっても極めて重要である。

その他 ミャオ族が7千人、チベット族が6千人、チュワン族が5千人居住している。

 





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