中国共産党の犯罪 五

東トルキスタン侵略

 チベットと並ぶ中国共産党の植民地として決して忘れてはならないのが東トルキスタンである。同国は面積は166万平方kmで、リビアについで世界第18位を誇る。人口も2000万人弱に達し、世界第54位である(とはいってもその4割は中国人移民)。
 かつてシルクロードの要衝であったこの国に対する日本人の関心は比較的高く、NHKなどでもさかん報道にされ、シルクロードに関する出版物は非常に多く、実際に観光で訪れる日本人も多い。だがこれらのほとんどは中華人民共和国の一部として捉えられ、シルクロードと比べて東トルキスタンという国名の知名度が格段に低い。イスラム圏でもアフガニスタンやイラクやパレスチナに関するニュースは多いが、一方で東トルキスタンでは中国共産党植民地政府による報道規制が厳しく、自由な取材ができないという現実があるのは確かである。だがそれ以上に日本マスゴミの怠慢によるところが大きいと言わざるを得ない。中央アジアのパレスチナとも言える東トルキスタンで何が起こっているのか、日本政府、マスゴミは目を背けるべきではない。

■中国共産党の東トルキスタン侵略
 歴史的に見て東トルキスタンはペルシャ人、モンゴル人、チュルク人、中国人などが群雄割拠した非常に複雑な歴史を有している。だが確実にいえるのはこの千年間においてこの地域の多数民族であったのはまぎれもなくチュルク系民族であることだ。東トルキスタン史の概要については当サイトの東トルキスタン歴史年表近現代史年表を参考にしてほしい。
 20世紀に入り、中華民国が混乱を極める中で、1933年に東トルキスタン・イスラム共和国が誕生した。だがこの政権は約1年ほどの短命に終わっている。第二次大戦の末期である1944年に再び東トルキスタン共和国が建国された。面積は現在の新疆ウイグル自治区の半分に満たなかったが、しっかりとした行政組織と民主的な政権が維持されていた。だが1950年に中国共産党軍の侵略を受け、抵抗もむなしく占領されてしまう。この時期、アジア諸国では韓国、北朝鮮、インド、パキスタン、スリランカ、ミャンマー、インドネシア、カンボジアなど次々と独立国家が誕生していた。こうした時流に逆らうかのように東トルキスタンは帝国主義者に侵略され、併合されてしまった。1955年には新疆ウイグル自治区が設置されている。
 本連載(中国共産党の犯罪)の他のページを見ていただければわかるように、中国共産党の残虐行為はあまりにも膨大で多岐にわたっており、到底全てを詳述しきれるものではない。本連載はなるべく多くの方々に時間をかけずに手短に読んでいただくことを目的としている。東トルキスタンについては主に現代において行われている残虐行為について述べるとしよう。

■核実験を自国内ではなく植民地で強行
 実は中国本土内で核実験は一度も行われたことがないのを皆さんはご存知であろうか。中国共産党が行った核実験は全て東トルキスタンのロプノールで行われ、計45回に上る。私は今ここで中国の核実験そのものを非難するつもりはない。アメリカなどは1000回以上も行っており、中国よりも桁が二つも多い。だが東トルキスタン国民から見れば、中国という外国に領土を侵略され、自国内で45回も核実験を強行されたのだからこのうえない迷惑である。

■現在の諸問題、資源強奪、大量移民、中国化政策、強制中絶
 東トルキスタンは天然資源が豊富である。石油、天然ガスの埋蔵量は中国共産党実行支配地域の28%と33%を占める。だが東トルキスタンのチュルク系民族の人口は中国人の100分の1だ。東トルキスタンが中国に侵略されて資源を強奪されていなかったら、今頃サウジやUAEほどではないにしても、NIEsなみの経済発展を遂げていたであろう。
 資源を強奪する一方で大量の中国人を東トルキスタンに送り込み、今や中国人が人口の半数に達する勢いだ。すでに政治のみならず経済までもが中国人によって牛耳られている。東トルキスタンの主要都市は地味なコンクリートの建造物で埋め尽くされ、すでにシルクロードの雰囲気が失われ、北京路、中山路などの中国的な道路名が付けられている。
 さらにウイグル人に対する強制中絶が行われている。一人っ子政策は中国人が多すぎるために人口抑制政策がとられているわけだが、東トルキスタンの非中国人人口は一千万人強で、それほど多いわけではない。しかもイスラム教徒にとって中絶はタブーであり、外国の侵略者によって強制的に中絶させられることはこのうえない屈辱である。

■現代でも続く過酷な拷問
 1997年2月に東トルキスタンのグルジャで大規模な反政府デモが行われた。中共は大規模な武装警察を動員して鎮圧した。アムネスティ・インターナショナルの報告によれば、このデモの前後で3,000から5,000人が逮捕されたという。彼らのうち少なくとも190人が処刑された。生き残ったものにも、文明国では到底考えられないような残酷な拷問が行われた。具体例をいくつかあげると、
 ・素手や道具で殴打する
 ・喉に電気棒を突っ込む
 ・逆さ釣りにする
 ・火で焙る
 ・猛犬に咬ませる
 ・縛ったまま寒気激しい戸外に放置する
 ・爪と指の間に針や削いだ竹を突き入れる
 ・手足の爪を剥ぐ
 などである。またあるウイグル人の囚人は、取り調べ官によって馬のたてがみを縒って作った糸を尿道へ何度も突き込まれるという恐ろしい拷問を受けた。この拷問は25分から30分も続けられ、彼の性器は腫れあがって出血した。彼は最終的に釈放されたものの、それから2ヶ月の間、小用を足す度に性器から出血したという。傷の治療には半年かかったとのことである。

■ラビア・カーディルさんへの迫害
 ラビア・カーディルさんは1948年、東トルキスタン北部のアルタイ生まれである。70年代後半以降、最初は生活のために洗濯、掃除、廃品回収などの底辺に従事し、その後は物々交換をしてさらに羊の皮やじゅうたんや布など様々な商品を売買し、さらには不動産や鉄鋼までをも扱うようになり、90年代半ばには中国十大富豪と言われるほどビジネスで大成功を収めるようになっていた。
中国共産党は90年代前半、富も名声をも得ていた彼女を取り込み、ラビアさんは政界入り、全国政治協商会議の委員などを務めた。1996年と97年、北京の人民大会堂で行われた政治協商会議で、彼女は不公平な中国の新彊統治、ウイグル族に対する人権状況を痛烈に批判した。97年の演説から一ヵ月後、ラビアさんは全ての役職を解かれ、パスポートまで没収された。99年8月、アメリカ在住の夫に東トルキスタン独立運動に関する新聞切り抜きを郵送したのを口実に、国家機密を漏洩したとして「国家安全危害罪」で逮捕され、懲役8年の刑を言い渡された。
 公安はあえてラビアさんに直接暴力は振るわず、ラビアさんの前でウイグル人の青年に残酷な拷問を加えて殺害することによってラビアさんに多大なる苦痛を与えた。
また、他の収容者と会話を交わすことは厳しく禁じられた。拷問こそ受けなかったものの、栄養不良、関節炎、その他の疾患に苦しみ続けた。
 2004年9月、依然として収容中のラビアさんはノルウェーの財団からラフト人権賞を授与された。そして欧米の人権団体の強い圧力により2005年3月、ラビアさんは釈放され、アメリカへ亡命した。現在でも5人の子供は東トルキスタンに残っており、中国共産党の監視下に置かれている。ラビアさんは今自由の国アメリカで、東トルキスタン人権運動のリーダー的存在となっているが、2006年1月には車に乗車中にテロリストが運転する車に追突され負傷するなど、アメリカにおいても中国共産党のテロ襲撃の被害にあっている。ラビア・カーディルさんについてはいずれもっと詳しく述べるつもりである。

■問われる日本の対応
 東大大学院東洋史研究科に留学していたトフティ・トゥニヤス氏は、99年に資料集めのために東トルキスタンに戻ったところ、スパイ罪と反革命罪で逮捕された。トフティさんはただ単に新疆ウイグル自治区の歴史を研究していただけで、反政府活動を行っていたわけでも、中国政府に批判的な文章を書いていたわけでもないのに懲役11年の刑に処せられた。妻のラビアさん(前述のラビア・カーディルさんとは別人)はトフティさんを救出すべく様々な努力を重ねてきたが、一部民間で運動が起きたのみで、日本政府は一切支援の手を差し伸べず、マスコミの報道も消極的なものに留まった。彼らの二人の子供は日本人である。日本政府は中国共産党を刺激しないためなら、自国民さえも見捨ててしまうのであろうか。
 今回述べた中国共産党の東トルキスタンへの残虐行為はほんのごく一部にすぎない。文革中には多数のモスクが破壊され、イスラム教徒に強制的に豚肉を食べさせるという残虐行為を行っている。イスラム教徒が豚肉を食べるのは、非イスラム教徒がゴキブリを食べるのに匹敵する苦痛である。中共の残虐行為はあまりにも多すぎて書ききれない。
法輪功よりもチベットよりもさらに知名度の低い東トルキスタンの人権状況に、我が日本こそが救いの手を差し伸べるべきではなかろうか。

 

 

 

 




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