中国共産党の犯罪 十 天安門大虐殺事件 

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 直接的なきっかけは1989年4月15日の胡耀邦前中共総書記の死去であった。翌日北京大学で民主化推進派の学生たちよって追悼集会が行われ、17日には北京市内で追悼集会が行われた。18日には1万人規模のデモ行進が北京市内で行われ、天安門広場で民主化を求める抗議の座りこみを始めた。19日にはその数が10万人に膨れ上がった。

 22日には人民大会堂で中国共産党主催による胡耀邦追悼集会が開かれたが、胡耀邦の功績についての再評価がなされなかったことから学生たちの怒りに火をつけ、23日には全国各地の大学で授業の無期限ボイコットという事態に陥った。

 なぜ胡耀邦の死がこのような民主化を求める大きなうねりにつながったのか。それは胡耀邦が言論の自由や政治的民主化を主張していた「開明的指導者」として中国人民からの指示を集めていたからだ。1986年12月に安徽省合肥で民主化を求める集会が開かれ、その運動が瞬く間に全国に広がると、胡耀邦はケ小平から「対応が生温い」と厳しく批判され、1987年1月に辞任に追い込まれてしまったのである。

 後任の趙紫陽総書記もケ小平の期待とは裏腹に、開明的な人物であった。今回の民主化運動に対して、趙紫陽も胡耀邦と同じく黙認の姿勢をとっていたことにより、党内保守派長老の猛反発を受けることになる。1989年4月23日に趙紫陽が北朝鮮訪問に出発すると、中国共産党は民主化運動の弾圧を決定。26日には人民日報が「動乱に反対しよう」という社説を掲げるに至った。

 『動乱』という表現学生たちは驚いた。彼らの要求はあくまでも社会主義体制下での民主化要求に過ぎなかったからである。翌4月27日には社説の撤回を要求して5万人がデモ行進を行った。5月4日には10万人によるデモ行進が行われ、この頃になると学生たちだけでなく広く市民の間にも民主化運動が広まっていた。

 5月5日の人民日報には趙紫陽総書記の「学生たちは我々の根本的な制度に反対しているのではない」という談話が一面に掲載された。学生たちは党のトップが支持してくれていると看做し、運動はさらに盛り上がることとなった。5月中旬には中国全土から集まった学生や労働者の数は50万人近くに上り、天安門広場は自由に意見を発表できる場へと変貌していった。

 5月15日にソ連のゴルバチョフ書記長が訪中すると、学生たちは世界のマスコミの注目が集まる好機と捉えた。ゴルバチョフを「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕が外国メディアに報道され、さらに一連の民主化運動が世界中に大きく報道されることとなった。5月17日には天安門広場に100万人とも言われる人々が集まって民主化を求め、中にはケ小平の退陣を要求するものも現れた。全国各地で一千万人が街頭に出たとも言われている。

 5月17日にゴルバチョフが帰国すると、中国共産党は政治局常務委員会を開催し、戒厳令布告について協議した。趙紫陽以外の全てのメンバーが賛成したという。19日午前4時45分、趙紫陽は天安門広場に現れ、ハンドマイクを持って学生たちに話しかけた。「我々はここに来るのが遅すぎた。すまなく思う」という有名な言葉を残し、「冷静に今後のことを考え、ハンストを早くやめてほしい」と主張した。これ以降趙紫陽が公の場に姿を現すことはなかった。翌20日、戒厳令が布告され、21日には趙紫陽が全ての役職を解かれ、自宅軟禁下に置かれた。趙紫陽に対する自宅軟禁は2005年1月に彼が死去するまで続いた。

 だが事態は沈静化に向わず、23日には北京市内で戒厳令に抗議する100万人規模のデモ行進が行われた。さらに学生たちは市内各地にバリケードを築くなどして抵抗した。5月29日には北京美術学院の学生によって作られた高さ10メートルの「民主の女神」像が天安門広場に運び込まれた。

 6月4日午前4時半、ついに人民解放軍が武力弾圧を開始した。兵士が群集へ無差別射撃を開始し、若者たちが次々と倒れていった。戦車が若者たちを次々と踏み潰していった。事態は一方的な市街戦の様相を呈し、人民解放軍は市街地で民衆を次から次へと虐殺して言ったのである。この天安門大虐殺事件による死者数は中国共産党による隠蔽のため定かではないが、数百人という説から二千人、四千人という説まである。

 この虐殺の様子は外国のマスコミによって世界中に報道された。動かしがたい物的証拠が残っているにも関わらず、中国共産党はこの事件を反動派による動乱事件として事実を捏造している。1996年に訪米して遅浩田国防相は、「天安門広場では一人の死者も出ていない」などと発言しているほか、中国共産党は「虐殺は存在しない」「死者は数人」などといった破廉恥な宣伝を繰り返している。

 虐殺事件後も、中国共産党はデモの参加者を次々と逮捕した。密告が奨励され、中国では友人も親族も信用できない恐怖社会がしばらく続いた。民主化への希望は完全に打ち砕かれ、それ以来中国人は政治について語るのを極度に恐れるようになってしまったのである。

 胡耀邦の死から7週間にわたって続いた民主化運動について、「あのときの学生たちの要求はあまりに性急すぎて非現実的であった」とか、「ほかに選択肢はなかった。ああでもしなければ全国に暴動が拡大し、収拾がつかない事態に陥っていた。」などと中国共産党による大量虐殺を擁護するかのような意見も時々聞かれるが、まさに小学生並みの幼稚さと言うほかない。学生、市民たちの要求はあくまでも社会主義体制下での民主、自由という穏健なものであった。それでも当時の中国にとっては性急過ぎると思う者もいるだろうが、そもそも彼らが民主化を要求したのは中国共産党の無能ぶり、腐敗ぶりがあまりにひどく、人民の不満が頂点に達していたからだ。ただ単に独裁というだけで7週間にもわたって数十万人が終結するという事態にはなり得ないはずだ。また虐殺以外に選択肢はなかったような人を人と思わないような意見を私は絶対に受け入れることはできない。即時政権交代や、即時の民主化を行わなくとも、話し合いで今後の改革のロードマップを提示することによって事態を収拾できたはずだ。実際に1990年の台湾の中正祈念堂で起きた民主化運動に対し、李登輝総統と民主化運動のリーダーとの話し合いによってひとまず沈静化した例がある。また、当時の中国では胡耀邦や趙紫陽のような民衆から熱烈な支持を受けていたリーダーが存在していたのであり、社会主義体制を維持したままでの緩やかな改革も可能であったはずである。

 私は、民主主義は普遍的な価値観だと思ってはいるものの、絶対的なものだとは思わない。それぞれの国の歴史的背景、政治制度、文化、民族性など様々な要素に照らし合わせ、その国に最も相応しい制度を取り入れればいいのであり、アメリカ式の民主主義はアメリカには相応しいかもしれないが、他の国にも適用できるとは到底思えない。中国のような巨大な国においては、ある程度の権威主義体制や、ある程度の言論統制が必要なことは理解できる。しかしだからといって虐殺や拷問は絶対に許されるものではない。それがその国の文化であり、伝統だというのなら、そのような文化、伝統は到底尊重できない。

 結果として求められるのは人々の豊かさ、幸福、人権であり、民主主義それ自体はプロセスであって結果として求められるものではない。人々に幸福をもたらす独裁であるならば私はわざわざホームページを立ち上げ、デモ行進を行ったりはしない。しかし今現在中国共産党が行っている数々の残虐行為、人権侵害は、独裁政治が極度なまでに悪の道に進んでしまったがゆえに引き起こされた筆舌に尽くしがたい悲劇である。そのような暴虐独裁政権に対しては一切の妥協と遠慮を排して、強く抗議しなければならないのである。

天安門虐殺事件報道写真特集 (衝撃的な写真が多数ありますのでご注意ください)

 

 

   
     
     

 




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