ガンゼ州について

 

 

 アバ州の下に位置するガンゼチベット族自治州は、アバ州よりもやや西に引っ込んでいるものの、やはりチベットの入口とも言える場所に位置している。ガンゼ州の面積は15万平方キロメートル。バングラデシュの面積よりも大きい。しかしガンゼ州の人口は87万人であるのに対し、バングラデシュの人口は1億4千万人。人口密度は約200倍の差がある。ちなみにバングラデシュの面積は世界第91位。世界の国々の半分以上はガンゼ州よりも面積が狭い。1955年にガンゼ・チベット族自治州が設置されると同時に四川省に編入されている。

  民族構成はチベット族が78.37%、漢族が18.24%、イ族が2.56%、チャン族が0.32%、回族が0.24%となっている。その他の民族はそれぞれ0.1%未満で人口もそれぞれ数百人程度なので省略する。ガンゼ州のチベット族はカム方言、アムド方言のほか、ムニャ語やグイチョン語(いずれもチベット語の支流言語)を話している。

 ガンゼ州を訪れる外国人はこれまた四川省の省都である成都市を経由するパターンが多いであろう。成都市から西に隣接する雅安市の中心部までは140キロ、そこからガンゼ州まではさらに160キロの道のりである。

 中国とチベットのガンゼ州を結ぶ国境の町、雅安市はその面積の大半は四川盆地から抜け出して山岳地帯となる。実際に雅安市内にはチベット族やイ族の郷も多数ある。ガンゼ州に入る前にすでにチベットの入口に差し掛かっているのだ。また、2007年に世界遺産に登録されたパンダ生息地には雅安市も含まれている。
雅安市から国道318号線を西に進んでガンゼ州に入るとまず濾定県に入る。濾定県には海累溝という観光地があり、原始森林や希少動物、温泉、滝、氷河などの壮麗な景観に恵まれている。特に氷河は世界で最も低地(海抜2850メートル)にある氷河として有名である。さらに濾定県、康定県、九竜県にまたがってミニヤコンカという山がそびえている。ミニヤコンカはミニヤ国の白い山という意味で、中国語では貢?山と呼ばれている。ミニヤコンカは海抜7556メートル。東チベットの最高峰であり、世界中の登山家をひきつけている。1981年には日本の登山隊が転落事故を起こして8名の死亡者を出している。

海抜7556メートル ミニヤコンカ山

 濾定県の隣の康定県はガンゼ州の州都で、チベット語の名称はダルジェント。1939年に国民党政府が設置した西康省の省都が置かれていた。西康省は1949年に西康省チベット族自治区となり、1955年に消滅した。チベット族、漢族のほか、イ族、チャン族、回族もおり、モスクや教会もあるなど、比較的多用なエリアである。康定は中国では「康定情歌」というドラマの舞台にもなっており知名度は高い。2008年5月には空港も開港している。

 丹巴県は美人が多いことで有名で美人谷という地名もあるぐらい。2007年にavexを果たしたalan(アラン・ダワジュオマ)もここの育ち。独特の建築と、多数の石塔が残されている。

 州の南東部にある九竜県は、主要民族はチベット族だが、イ族も多く、イ族の郷が4箇所点在している。
 ガンゼ州の西南に行くと稲城県にはいる。稲城は人口の96%がチベット族で占められている。とはいっても静岡県と同じぐらいの面積のところに人口はわずか3万人。

 稲城県の亜丁風景区は九寨溝にも負けないくらい景色の美しいところで、すでに中国人向けのツアーなどは多数催行されている。だが交通の便が悪く、四川省の省都である成都市から二日がかりの道のり、道路状況も悪くバスは揺れっぱなし。今のところ外国人で訪れる人はごくわずかだ。だが秘境だからこそ滅多にお目にかかれないような美しい景色が隠されているのだ。いずれこのサイトでも紹介したいと思う。

 郷城県は人口わずか3万人だが、中国人による侵蝕の少ない、チベット独自の文化が色濃く残っているエリアだ。桑披寺やニディン峡谷などの観光地にも恵まれている。アクセス困難な秘境であるからこそ独自の文化が残されたのであろう。

 ガンゼ県には優れた寺院が多数ある。ガンゼ寺は28.5万平方メートルの敷地を持つ広大な寺である。残念ながら文革で破壊されたが、1980年代に修復された。大金寺はジョカン寺を模した壮麗な寺院である。東谷寺は1417年の創建以来経典やタンカや仏像など数多くの文物が生み出されている。

 1950年代後半は東チベット全域で中国共産党侵略政府に対する激しい抵抗運動が起きていたが、ガンゼ州はとりわけ激しかった地域だ。1956年春にはリタン僧院で激戦が繰り広げられた。高さ6メートルの塀に囲まれていた東チベット最大級の寺院は軍事要塞と化し、数千人の村人が集結した。そこへ中共侵略軍が包囲し

、2ヶ月に渡る籠城が続いた。強力なチベット兵は包囲網を突破し、近くを流れる川をせき止めて中共軍の飲料を遮断し、10日後に再び川の水を流して中共兵が大挙して押しかけたところを一斉砲撃して大勢の侵略軍を退治したという。その後は中共軍が大砲で僧院の塀を破壊して内部に侵入し、侵略軍と義勇軍が血みどろの戦闘を繰り広げた。最終的に中共軍がロシア製爆撃機を投入してリタン僧院の建物、彫刻、美術品などありとあらゆる全てを破壊し、5000人のチベット人を虐殺することでこの戦闘は終結した。1950年代後半から1960年代前半にかけてはこのような戦闘が東チベットの各地で繰り広げられていたのだ。

 ガンゼ州はダライラマ7世と10世、さらにペマ・ギャルポ氏の出身でもある。歴史的に見てもチベット文化が早期から開化し、ラサ、夏河(甘粛省)と並んでチベット文化の三大拠点と看做されていたくらいである。チベットの歴史、文化においても重要な地位を占めていると言えるだろう。
 
 
 

稲城亜丁 海累溝

  

 


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