ラビア・カーディルさんについて
 

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「ウイグルの母」ラビア・カーディルさんの初来日が11月7日にせまっている。ネット上で調べるとラビア・カーディルさん来日についての記事を多数見かけるが、まだまだわが国ではラビア・カーディルさんの知名度はダライラマ法王と比べても圧倒的に低いといえるだろう。ではラビア・カーディルさんとはどのような方なのかをここで紹介することにしよう。
ラビア・カーディルさんは1948年生まれ。当時はまだ東トルキスタン共和国が健在だったが翌年には中華人民共和国に併合されてしまったのでラビアさんには全く記憶にないであろう。出生地は東トルキスタン最北部のイリ・カザフ族自治州のアルタイ地区。アルタイ 地区はモンゴル、ロシア、カザフスタンと国境を接している。
 ラビアさんは小学校を5年で中退している。それほど貧しい家庭に生まれたわけではなかったが、14歳のときに中国共産党によって家族の家、土地、財産を全て没収され、家族はアクスに移住した。翌年ラビアさんは13歳年上の銀行員と結婚した。だが1976年、ラビアさんは不法に商売をした罪で当局に糾弾され、夫とも離縁することとなった。(1977年にシディック・ラウジ氏と再婚)。
6人の子供を抱えたラビアさんは、生きていくために商売を始めた。まずは洗濯やから始まり、ウサギの毛皮の帽子を売り、スカーフを売り、日本製カセットレコーダーを売り、麺類を売り、野菜を売った。幾度の失敗を経験しながらラビアさんは商売に勤しんだ。
 やがて、ラビアさんは1000万ドルを超える資産を持つようになり、百貨店や不動産業など様々なビジネスを営む企業帝国を築き上げ、中国十台富豪の一人に数え上げられ、一時期は中国の富豪ランキングの5位に入るまでになった。1992年には通称ラビアビルをウルムチに建設。多くのウイグル人に経済的に自立できる機会を与えることが目的であった。ウイグル人によるテナントでひしめき合っているという。ラビアさんはウイグル人女性の地位向上にも取り組み、ウイグル人女性の雇用機会拡大と職業訓練促進のため「千人の母親運動」を立ち上げたりもした。
 ラビアさんは政界にも抜擢された。1993年には全国人民政治協商会議の委員となり、新彊地区人民会議に任命され、1995年に北京で開催された第4回国連世界女性会議にも派遣された。こうして政治面でも経済面でも大成功を収めたラビアさんだったが、その正義感の強い性格が自身に災いをもたらすことになる。彼女はしだいに政治協商会議の場で、ウイグル族の教育機会不平等、社会福祉の不足、一人っ子政策の弊害、信教の自由、政治犯の処遇などについて中央政府を厳しく批判するようになった。また、以前から中国政府に批判的で政治犯として収容された経験もある夫が1996年にアメリカに移住して政治活動を行っていたことも災いした。1997年、ラビアさんはパスポートを没収され、全ての要職を解任された。1999年8月、 ラビアさんは現地で合法的に発行された新聞をアメリカ在住の夫に届けるため、ウルムチを訪問していたアメリカ合衆国議会調査団に渡しにいく途中、国家機密漏洩罪で逮捕された。2000年3月、ラビア・カーディルさんは懲役8年の刑が宣告された。
 ラビアさんは直接肉体的拷問を受けることはなかったが、当局は目の前で他のウイグル人を拷問するという苦痛を彼女に与えた。また、他の収容者と会話を交わすことは厳しく禁じられた。拷問こそ受けなかったものの、栄養不良、関節炎、その他の疾患に苦しみ続けた。
 2004年9月、依然として獄中にいたラビア・カーディルさんはラフト・人権賞を受賞した。ラビアさんがラフト人権賞を受賞したことは比較的知られているが、その賞そのものについてはほとんど知られていないので簡単に説明しよう。ラフト人権賞とはノルウェーのベルゲンに本部があるラフト人権財団が授与するもので、87年トロロフ・ラフト博士の遺志を継いで設けられた。トロロフ・ラフト博士(1922〜1986)はノルウェーの人権活動家ならびに経済学者で。彼は1979年チェコ・スロバギアのプラハを訪問中に共産党治安警察に暴力と虐待を受け、その後も後遺症に苦しみ、1986年に64歳で亡くなった。歴代の受賞者は文末に掲載する。

 国際社会の強い圧力により、ラビアさんは2005年3月に釈放され、アメリカに移送された。特にラビアさんがアメリカ合衆国の議員に会おうとしていたときに逮捕されたことから、アメリカはラビアさんの救出に特別に力を注いだようだ。釈放されるとき中国当局は、もしもアメリカで政治活動を行えば5人の子供は「一巻の終わりになる」と脅迫したという(ラビアさんは計11人の子供がおり、他の6人は外国にいる)。
 内外のウイグル人から絶大な信頼を受けているラビア・カーディルさんは、今までまとまりのわるかった東トルキスタンの独立運動において、チベットにおけるダライラマのようなカリスマ的リーダーとなることが期待されている。その期待通り、亡命後のラビアさんは米国ウイグル人協会会長や、ドイツのミュンヘンに本部のある世界ウイグル会議の議長を務め、世界各地を飛び回り東トルキスタンの平和と人権のために全力を尽くして活動している。中国政府はラビア・カーディルさんをテロリストと呼ばわりして破廉恥な非難をしているが、ラビアさんの活動は中国共産党とは対称的に平和的なものである。また、ラビアさんは政教分離主義者でもあり、本物のテロリストである中国共産党にラビアさんを批判する資格はない。

 今年の11月8日にラビア・カーディルさんが初来日を果たし全国各地で講演会などを行う予定となっている。これを機会に日本でもラビアさんの知名度が高まり、東トルキスタン共和国の認知度が高まることを願っている。

歴代のラフト人権賞受賞者

年度 名前 国
1987 ジリ・ハジェック チェコ・スロバギア
1988 トリヴィミ・ヴェリステ エストニア
1989 ドニア・コルネア/FIDESZ ルーマニア/ハンガリー
1990 アウン・サン・スーチー ミャンマー
1991 ジェレナ・ボナー ロシア
1992 プレア・マハ・ゴサナンダ カンボジア
1993 ホセ・ラモス・ホルタ 東ティモール
1994 レイラ・ザナ トルコ
1995 ロシア軍人の母委員会 ロシア
1996 パレルモ・アノ・ウノ イタリア
1997 イアン・ハンコック ロマ人
1998 ECPAT タイ
1999 ジェナディ・クラシュホイ ベラルーシ
2000 金大中 韓国
2001 シリン・エバディ イラン
2002 モハメッド・ダッダーシュ 西サハラ
2003 パウロ・テスファジオルジス エリトリア
2004 ラビア・カーディル 東トルキスタン
2005 リディヤ・ユスポワ チェチェン
2006 ド・ティックアン ベトナム
2007 デリー国際人権キャンペーン インド

ウイグルの母ラビア・カーディル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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