チベットの歴史D ダライラマ13世時代 

打倒中国共産党トップ

中国政治掲示板

MAIL

中国関連リンク

悪魔のリンク

チベット関連リンク

北朝鮮関連リンク

2002年の論説

2005年の論説

2006年の論説

2007年の論説

特別論説

チベット編

東トルキスタン編

 

 

 

 

 

 

19世紀末に入ると、南下政策を進めるロシアの影響力がチベットにも及び始めた。イギリスはこの状況を打破するため、ついに1904年1月、ヤングハズバンド率いる3000人のイギリス軍がチベットに侵攻し、8月にはラサを占領した。ダライラマ13世はモンゴルに亡命し、9月にはチベット・イギリス両国間でラサ条約が締結され、チベットは事実上イギリスの影響下に入ってしまった。

チベットに対する宗主権を否定された清朝は、形式的だけでも宗主権を維持すべく、1906年にイギリスと北京条約を締結した。イギリスとしては、チベット占領が目的ではなく、チベットをロシアと対抗するための緩衝地帯とすることが目的であった。翌1907年には日露戦争で痛手を被っていたロシアと英露協定を締結し、「チベットの領土保全、内政不干渉」などを盛り込んだ。だが蚊帳の外におかれた清朝は危機感を持ち、1910年にチベットを侵略。東チベットに西康省を設置し、チベットをも清の一省に組み込もうとした。ダライラマ13世は英領インドに亡命。これを機に清朝はダライラマ法王の廃位を宣言した。

チベットは存亡の危機を迎えたが、翌1911年には清で辛亥革命が勃発。清朝は崩壊した。チベット政府はアンバン、及び清朝の兵士を全てチベットから追放した。ラサに戻ったダライラマ13世は1912年7月、独立宣言を発表した。1913年にはモンゴルの首都ウランバートルで、チベットとモンゴルは中国の支配を受けない独立国であることを宣言した相互援助条約を締結した。

1913年10月より、インドのシムラでチベット、イギリス、中国の三国間でシムラ会議が開催された。会議は6ヶ月に及び、翌年4月、3国代表によって仮調印された。その大まかな内容は@チベットを外チベットと内チベットの二区にわける。A中国政府はチベット全土の宗主権を持つが、チベット政府が完全な自治権を持つことを承認し、これを省にしてはならない。Bイギリス政府はチベットの如何なる領土も併合してはならない、というものであった。だが正式調印の段階で清朝は署名を拒否、イギリスとチベットの二カ国間で正式調印された。

ダライラマ13世はチベットの近代化の必要性を認識し、郵便、電報システムを導入。仏教の興隆に力を注ぎ、この時期にチベット仏教文化は目覚しい発展を遂げた。
中華民国はチベットへの野心を全く捨ててはいなかった。イギリスが第一次世界大戦に没頭しているのを契機に、中国は1917年に東チベットを侵略、翌1918年にイギリスの中国駐在イギリス副領事の調停で休戦した。

1927年、蒋介石はダライラマ13世に書簡を送り、中国の一部となるよう勧告したが、ダライラマ13世はこれを拒否した。蒋介石は1930年にも書簡を送ったが、再びダライラマ13世は拒否した。

1932年、青海地方や東チベットでチベット軍と中国軍との戦闘が相次ぎ、翌年には国境線画定協定が調印されるなど、チベットと中国の関係は和戦両様であった。

翌1933年、ダライラマ13世が亡くなった。

 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

チベットの歴史

@古代王朝時代

A分裂国家の時代

Bチベット文化圏の拡大

Cダライラマ政権時代

Dダライラマ13世時代

Eダライラマ14世幼少期のチベット

F平和解放という名の侵略

Gチベット動乱

H民主改革

Iチベットにおける文化大革命

J引き裂かれた自由への期待

K大いなる干渉

L終わらない弾圧

   
     
     

 




100MB無料ホームページ可愛いサーバロリポップClick Here!