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1934年にダライラマ13世の葬儀が行われ、各国が使節を派遣し、中華民国も黄慕松らを参列させた。黄慕松はこのときもチベット政府に対し、中華民国の一部になるよう勧告するが、逆にチベット政府はシムラ条約の承認と、東チベットの返還を要求した。結局会談はものわかれに終わり、中国側は連絡員2名をラサに駐留させ、後に蒙蔵委員会と名乗ることになった。蒙蔵委員会は現在でも台湾に現存するが、チベット政府は当初から一貫して蒙蔵委員会を正式な代表部とは認めていない。

1935年7月6日に、チベット北部のタクツェルの農家で、ラモ・ドンドゥプが誕生。2年後にダライラマ13世の転生と認定され、テンジン・ギャツォと命名された。1939年2月にダライラマ14世の即位式典が行われた。

1942年、当時は第2次世界大戦の真っ只中であり、日本軍が英・米から重慶への武器供給ルートであったビルマ・ルート(援蒋ルート)を遮断したため、イギリスと中国は、インドから南チベットを経由して重慶を結ぶ新ルートの解放をチベット政府に迫ったが、チベット政府は中立を貫くとしてかたくなに拒否した。

国際情勢が激変する中で、チベットにとっては近代化が急務になっていた。1943年にチベット政府は外交を担当する部署として1908年に設置されていたゴルカ局を発展させ、外交局を設置。さらに1944年に税制改革、無料労役制度の廃止、政府貸付の農民の滞納負債利子全額免除などの改革が次々と断行された。

第2次世界大戦が終結した翌年の1946年、チベットは連合国側諸国に祝賀使節団を送り、1947年にインドのデリーで開催されたアジア諸国会議にもチベット代表団が出席、会場にはチベット旗が翻った。1947年には通商代表団をインド、イギリス、アメリカ、中国に派遣した。この際に訪問団はチベット政府発行のパスポートを用いた。チベットが独立国家として世界から受け入れられていることは明らかだった。1949年にはラサの中華民国代表部(いわゆる蒙蔵委員会)に対して閉鎖、退去を命じた。チベットは本格的に世界各国と外交関係を築こうと意欲を見せているところだった。

ところが1949年10月に中国共産党が政権を樹立し、中華人民共和国が誕生、中国共産党はラジオを通じて、チベット人民を外国の帝国主義の手から解放するためにチベットに進駐すると宣言した。そして東部国境地帯に大軍を派遣した。チベットは歴史上かつてない存亡の危機に直面することとなった。

チベット政府はただちにイギリス、アメリカ、インド、ネパールの各国政府に、中国の侵略行為の停止を勧告することを決定した。さっそく代表団が結成され4カ国に派遣された。だがアメリカとイギリスは同情の意を表明したものの、チベットへの支援を拒否、インド政府も和平交渉を行うよう助言するのみであった。チベットを支援してくれる国はどこにもなかった。

やむなくチベットは中華人民共和国と交渉をおこなうことになった。そこでツェチャ・トゥプテン・ギャルポ、ツェポン・シャカプパの2名の代表を派遣することを決定。代表団はインドを訪問し、ネール首相と会談、さらに駐印中国大使が着任したことから本格的な交渉が始まった。だが交渉がまだ終了していない1950年10月7日、人民解放軍はチベットへの武力侵略を開始した。


 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

チベットの歴史

@古代王朝時代

A分裂国家の時代

Bチベット文化圏の拡大

Cダライラマ政権時代

Dダライラマ13世時代

Eダライラマ14世幼少期のチベット

F平和解放という名の侵略

Gチベット動乱

H民主改革

Iチベットにおける文化大革命

J引き裂かれた自由への期待

K大いなる干渉

L終わらない弾圧

   
     
     

 




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