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ダライラマは1955年3月、北京を離れラサに向った。ダライラマは生まれ故郷のアムドを経由した。途中で住民に幸せかと問うと、「中国共産党と毛主席のおかげで大変幸せです」と涙ながらに答えるのを見て、大きなショックを受けた。実際のところ、アムド地方は荒れに荒れていた。アムドの人々は中国共産党に徹底的に非協力的であったため、中共は苛酷な税の取立て、土地の収奪、さらには僧侶への広範な迫害を行っていた。ダライラマがアムドを経由する直前にもゴロク族と中共軍が戦闘を交えたばかりであった。

中国政府はすでに1951年にチベット東部に解放委員会を設置し、1954年には南部のシガツェにパンチェンラマを頂点とするパンチェン行政庁を設立した。代々パンチェンラマは宗教的権力はあっても世俗的権力は持たないものとされてきたが、中国政府はパンチェンラマ10世を操り人形として動かしていた。こうしてチベットは解放委員会、パンチェン行政庁、ラサのチベット政府の三つに分割されていた。

そして1956年4月、チベット自治区準備委員会が成立し、ダライラマ法王が主席、パンチェンラマが副主席に任命された。委員には97名が任命されたが、過半数の51名を中国政府代表が占め、残りはチベット政府代表15名、パンチェン行政庁10名、チャムド解放委員会10名、寺院大衆代表11名となっていた。準備委員会が発足するとチベット民衆の間に反対するビラがまかれたり抗議集会が開かれたりした。これに対し中国政府は集会を禁止し、次々と逮捕に踏み切った。

1956年、インド政府は仏陀生誕2500周年記念祭にダライラマ法王を招待した。当初中国政府はダライラマのインド訪問を認めない方針であったが、「ダライラマが自由にインドを訪問できることをアピールしたほうが中国にとっても有益である」とのネール首相の勧告を受け入れ、容認に方針転換した。

1956年11月、ダライラマとパンチェンラマはインドを訪問し、念願であったブッダガヤ大菩提寺を参拝した。1957年初頭にパンチェンラマは帰国したが、ダライラマはインドに留まり、ネール首相に亡命受け入れを要請したが受け入れられず、1957年1月にニューデリーを離れ、チベット国境近くのカリンポンに到着した。周囲のチベット人は帰国に強行に反対した。6年前と同じパターンだ。帰国派と亡命派との間で論争が延々と続いた。ダライラマは政治的議論にうんざりし、チベットに帰国する決意を固め、4月にようやくラサに帰還した。

東チベットでは1956年夏ごろからチベット人義勇兵と中共軍による戦闘が本格化した。ゴロク地方に3千人の中共軍が駐留すると、ゴロク族は一斉に武器を取り、中共侵略軍800人を血祭りに挙げた。すかさず中共軍も反撃し、ゴロク族の居住地をことごとく襲撃し、家畜を略奪し、数千人を無差別に虐殺した。生き残ったゴロク族は山に逃げ込み、今後はひたすら中国人を殺すためにのみ生き続けることを誓った。

戦乱は各地に広がった。南カムではサムペリン寺院が中共軍に包囲され、爆撃により2000人が虐殺された。ニャロン地区ではチベット人が中共軍の陣地を包囲し、激しい戦闘の末、2000人以上の中共軍を打倒した。しかし2万人の中共軍部隊が投入されたため、チベット人義勇兵は撤退し、ゲリラ戦を展開することになる。リタン地方ではリタン僧院に数千人のチベット人が立てこもり、中共侵略軍を血みどろの激戦を繰り広げた。最終的にリタン僧院は跡形もなく爆撃され、5000人が虐殺された。爆撃機はマルカムなどほかの地方の僧院も徹底的に爆撃した。

1958年になるとチベット人義勇兵は勢いを増し、山岳地帯の利点を生かしてゲリラ戦でさかんに人民解放軍を攻撃した。さらに義勇軍による戦闘は南部にも拡大し、東部や南部では事実上義勇軍が支配する地域も出現した。

こうした解放戦争に対する中国側侵略軍の報復は残虐極まりないものであった。人民解放軍は見せしめのため、何千という寺院や町を砲撃や爆撃で破壊、寺院の貴重な仏像や経典を容赦なく略奪した。破壊されなかった寺院も中共軍にトイレとして利用され、経典はトイレットペーパーとして使用された。僧侶に還俗を強制したり、著名な僧侶に対しては公衆の面前で尼僧と性交させたりした。中共人民解放軍による報復はそれこそ無差別大量殺戮の様相を呈した。

以下に『中国はいかにチベットを侵略したか』から引用しよう。

 

「妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちにされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小屋にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。拒否した僧のあるものは腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴に放り込まれ、村人はそのうえに小便をかけるように命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、挙句に全員射殺された。おびえる子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小屋にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。何千人もの村民は強制労働に駆り出されそのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた」

 


もうひとつ引用しよう。

 


「女性たちは公衆の面前で素っ裸にされ、夫が罪を認めないと彼女たちはその目の前で強姦された。また、夫たちは人々の前で妻と性交するよう強制される場合もあり、その後たいてい処刑された。そして妻や娘は中共兵に投げ与えられた。
 尼僧もこの暴力から免れることはできなかった。裸にされた僧侶は、これも素っ裸にされた尼僧と性交するよう強制され、中共軍はこれみよがしに、「これがチベット仏教とその純潔さだ」と嘲笑った。その後僧侶たちの多くは処刑され、尼僧は中共兵の餌食にされた。年に関係なくいたるところで女性は強姦され、それも何度も犯され、揚句殺されていった」

 


 チベット東部から数千人の民衆が難民としてラサになだれこんでいた。さらに4万人の中共軍がラサと近郊に駐留し、ラサ市民の食料は窮乏した。1958年11月には各新聞にチベット仏教を口汚く罵しり、仏陀を反動主義者として非難する記事が掲載され、チベット人の民族感情を大きく傷つけた。

1959年2月、3月10日に軍の駐留キャンプで行われる予定の観劇にダライラマは招待された。その際にわざわざ慣例に反して「護衛をつけないように」という要求をつきつけたので疑念が急激に高まった。誰もが、ダライラマ法王が拉致されてしまうのではないかと不安がたかまった。

 1959年3月10日、ラサの人口の半分に相当する3万人がノルブリンガ宮殿を取り囲み、道路を遮断した。集まった人々はダライラマ法王を守るために必死だった。民衆は法王が観劇に参加しないよう主張し、「チベットに独立を」「中国人は帰れ」などと叫んだ。中共に魂を売ったパクパラという高級官僚がダライラマを説得するためにノルブリンガを訪れたが、民衆に取り押さえられ、叩き殺されてしまった。

閣僚の一人が宮殿の屋上に上り、法王は観劇に参加しない旨を群集に伝え、群衆に静まるよう懇願した。そして二人の閣僚が軍区司令部に赴き、ダライラマ法王が観劇に参加できないことを伝えた。2時間ほどして二人の閣僚はノルブリンガ宮殿に戻ったが、群集は依然として宮殿の周囲から立ち去ろうとしなかった。民衆の中共に対する怒りはすでに頂点に達していた。

 3月11日、ラサの民衆は市内各所にバリケードを築き、武器を手にし、決戦に備えた。あらゆる道路上に「中国人は中国へ帰れ!」「中共を追い出せ!」などと書かれたポスターが貼られた。こうした状況はラサのインド領事館からデリーのインド政府に詳しく報告されていた。ネール首相は一切の情報を封印していたが、イギリス人ジャーナリストパターソンがデリーで情報をキャッチし、諸外国の報道陣にも伝えられた。

3月12日には、12000人のチベット人女性がポタラ宮前の広場に集まって集会を開き、チベットの独立を主張、さらにラサ市内をデモ行進した。中共軍はダライラマに書簡を送り、チベット民衆の行動を到底放任するわけにはいかない、さもなくば武力で鎮圧すると警告した。チベット政府は引き続き民衆に解散するよう訴えたが効果はなかった。事態は一触即発の状態に陥っていた。いつ中共軍が全面的な武力弾圧に出てきてもおかしくなかった。

 ダライラマ法王及び政府閣僚は、これ以上ラサにとどまることは身の安全上懸命ではないとの結論に至り、3月16日深夜、変装して夜陰に紛れて民衆が取り囲んだノルブリンガ宮殿を脱出し、インドへ向けて亡命へのたびに向った。

 3月19日、ついに最悪の事態が発生した。中共軍はノルブリンガ宮殿に一斉砲撃を開始したのだ。砲撃は41時間継続し、3月22日まで続いた。この無差別大量虐殺により、数万人のチベット人が殺されたという。ノルブリンガ宮殿の周囲は足の踏み場のないほどチベット人の死体で溢れかえっていた。悪臭は耐え難く、もはや人間のいる場所ではなくなっていた。

 3月28日、中国政府はチベット政府を解散し、その職権をチベット自治区準備委員会に移行、パンチェンラマを主席代行に、ンガワン・ジグメを秘書長に任命した。ンガワン・ジグメはチベットの売国奴として知られ、1910年生まれ、現在でも存命である。

 ダライラマ法王は1959年3月31日、長旅の末、ついにインドに到着した。インド入国に当たっては、ダライラマの動向を随時把握していたCIAがアイゼンハワー大統領に連絡し、ホワイトハウスからネルーに直接連絡し、ダライラマ一行の入国が事前に許可されていた。

4月、ダライラマ14世はダラムサラで亡命政府の設立と、チベット「平和解放」十七条協定の無効を宣言した。チベットの民族と文化を守り抜くための、ダライラマ法王の長い長い道のりが始まったのである。

 

 

『中国はいかにチベットを侵略したか』 マイケル・ダナム著 講談社インターナショナル \1890

 

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J引き裂かれた自由への期待

K大いなる干渉

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