概説 東トルキスタンの歴史A 突厥
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突厥は「チュルク」を中国語で音訳したものとみて間違いない。突厥はチュルク系民族によって樹立された初の本格的大帝国である。 突厥民族はアシナ(阿史那)氏によって支配され、その族長はテュメン(土門)と呼ばれた。とはいえ当初突厥は柔然に従属していた。 突厥が独立国家となったのは、西暦552年、柔然の軍隊を撃破してそのカガンを自殺させ、突厥のテュメンは自らイルリグ・カガン(伊利可汗)と称した。こうして突厥の遊牧国家が成立した。 突厥は三代目のムカガン・カガン(木汗可汗)の治世(553〜572)に最盛期を迎える。555年には柔然を滅ぼし、567年にエフタルを撃破し、東方では契丹を撃破、北方ではキルギスを撃破した。突厥は瞬く間にモンゴル高原からタリム盆地を経て中央アジアにまたがり、カスピ海北岸あたりまでに達する大帝国となった。 とはいっても少ない人口で広大な領土を支配した突厥の支配基盤は脆弱であった。モンゴル高原を拠点とする大カガンのほかに、中央アジアを支配する西面カガン、満州方面を支配する東面カガン、そのほかにもカガンや小カガンが割拠し、半独立といった統治を行っていた。 突厥の安定期は4代目のタスパル・カガン(佗鉢可汗)の時代まで続いたが、581年にタスパル・カガンが死去すると突厥は後継争いで混乱し、イシュバラ・カガン(沙鉢略可汗)が5代目に即位した。しかし583年に隋との戦いで大敗すると突厥内の混乱は激しさを増し、これに隋の巧みな分離工作が加わり、同年に突厥は東突厥と西突厥に分裂するに至った。これにより突厥と隋との力関係が逆転し、イシュバラ・カガンの後を継いだ6代目は隋からバガ・カガンとして冊立されるようになった。東突厥は主にモンゴル高原を、西突厥はタリム盆地を支配した。 その後しばらく東突厥の族長は隋から冊立される形式をとっていたが、始筆カガン治世の615年に隋を攻略し、隋との朝貢関係を停止した。だが突厥の優位は長く続かず、619年に即位したイルリグ・カガン(頡利可汗)の時代に突厥は混乱を極め、630年に唐によって制圧された。 突厥は唐の影響下で羈縻(きび)支配をしばらく受けていたが、その後突厥は独立の動きを見せ始める。682年にクトゥルグ・カガンによって独立に成功し、687年にモンゴル高原のウテュケン山を奪還、チュルク系部族を次々と服属させ、682年にイルテリシュ・カガンと名乗った。この復興以後を突厥第二カガン国という。691年に弟のカプガン・カガンが即位し、しばしば唐との戦闘を繰り広げた。716年に即位したビルゲ・カガンの治世では突厥と唐との関係は比較的安定していたが、734年にビルゲ・カガンが死去すると突厥は途端に弱体化し、745年、突厥はウイグルによって滅ぼされた。 一方、西突厥は比較的安定してタリム盆地一帯を支配していたが、630年に唐が東突厥を制圧すると、唐の影響力はハミ地方にまで及んでいた。640年に西突厥は唐との戦いに敗れる。7世紀後半の頃タリム盆地では唐、西突厥、チベット三者による争奪戦が繰り広げられることになる。唐は644年、646年に盛んに西突厥に攻め込んだ。 その後は8世紀を通じてタリム盆地ではにチベットが優勢となり、チベットは790年にキジルを、792年にトルファンを占領している。744年に建国された遊牧ウイグル帝国(次章で述べる)がタリム盆地にまで勢力を伸ばすのは9世紀初頭のことである。 ピンク色の枠が最盛期の突厥の最大勢力範囲。モンゴル高原から東トルキスタン及び西トルキスタンの一部までが勢力に入っている。
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東トルキスタンの歴史
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