概説 東トルキスタンの歴史L−東トルキスタン・イスラム国
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1928年に楊増新が暗殺されると首謀者はその日のうちに逮捕され、楊の腹心であった金樹仁が新彊省主席となった。金樹仁は楊と比べるとはるかに無能な人物であった。イスラムの習慣に全く配慮を欠いており、屠畜税導入やメッカ巡礼の禁止などを行い、瞬く間にムスリムの不満が高まった。また、伝統的な地方の有力者による支配を廃し、新彊省政府が任命した役人による支配に切り替えようとした。さらにハミでは清朝から自治を認められていたチャガタイ・ハンの王統を受け継ぐ小王国があったが、金樹仁はこれもを廃止してしまった。 1931年にハミで反乱が発生、1932年にはトルファンでも反乱が発生、1933年4月に新彊省政府でクーデターが起こり、金樹仁は失脚し、劉文龍が昌政府主席に就任した。 さらに東トルキスタン南部のホータンでは、1933年2月、ムハンマド・アミーン・ブグラが武装蜂起して新政府を樹立し、イスラム法に基づく当時を実施した。そして1933年11月に東トルキスタン・イスラム共和国の成立を宣言した。大統領にはホージャ・ニヤーズが就任し、サービド・ダーモッラーが首相に就任した。東トルキスタン政府はイギリスやトルコとの国交樹立を望んだが実現しなかった。 そして1934年に東トルキスタンの軍隊は回族の馬仲英の軍隊に壊滅させられた。大統領のホージャ・ニヤーズは、ソ連を通じて省政府督軍の盛世才と交渉を行い、首相のサービト・ダーモッラーを新疆省政府に引渡し、自らは省政府副主席に就任した。 東トルキスタン・イスラム共和国建国には、1910年代頃から高まっていた東トルキスタン民族主義の高揚があった。オスマン帝国は汎トルコ主義の宣伝を中央アジア全域に広めることに熱心で、1910年代にオスマン帝国からアフメト・ケマルが東トルキスタンに入り、カシュガルで師範学校を開設した。アフメト・ケマルは途中で活動停止を余儀なくされたが、彼と関わった人々の多くは、様々な潮流の民族主義的な活動に参加した。
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東トルキスタンの歴史
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