概説 東トルキスタンの歴史D−カラハン朝
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840年の遊牧ウイグル帝国滅亡後、最も西に移住した部族が9世紀中ごろに建国したのがカラハン朝である。カラハン朝はベラサグン(現在のキルギスタン東部)に首都を置き、9世紀末にはカシュガルを占領し、東トルキスタンの一部に領土が食い込むようになる。カラハン朝は中央アジアにおけるチュルク・イスラム化を決定づけた時代として、中央アジア史では非常に重要視されている。イスラムの本格的な受容は10世紀前半のサトゥク・ボグラ・ハンによって行われたといわれるが、残された史料は伝説的な要素が強いため、真相は定かではない。960年には20万人のチュルク人が一斉にイスラムに改宗したと言われる。 これ以後のカラハン朝は、東西に領土を広げ、タリム盆地のホータンやクチャを征服する一方、西にも拡大して999年にイラン系イスラム王朝であるサーマーン朝の首都ブハラを征服し、サーマーン朝を滅ぼした。しかし、1008年にはガズナ朝との戦いに敗れ、アム川以西へは進出できなかった(カズナ朝はチュルク系だが文化的にはペルシャ化が進んだ)。 カラハン朝は1041年に東西に分裂。西カラハン朝は1089年に同じチュルク系のセルジューク朝(この王朝は現在のトルコ共和国に相当する領域のチュルク化を進展させた王朝として重要である)。に服属し、1212年にホラズム朝に滅ぼされた。セルジューク朝もホラズム朝もチュルク・イスラムの王朝であるが、支配領域は東トルキスタンには及んでいないので、当サイトでは取り上げないこととする。 東カラハン朝も12世紀前半にカラ・キタイに服属し、1131年にカラ・キタイとの戦いに敗れてカシュガルを支配するだけの小王国となり、1211年にカラ・キタイの攻撃によって滅亡した。 東トルキスタン西部と西トルキスタンを支配したカラハン朝の治世は、東トルキスタンを支配した天山ウイグル王国と同時期であり、これら二つの王朝の繁栄によって中央アジアのチュルク化が確立することになる。中央アジアがトルキスタンと呼ばれるようになるのも頃からである。また、カラハン朝の時代には優れたチュルク・イスラム文化が生み出され、ユースフ・ハーッス・ハージブが著したトルコ語による韻文作品『クタドゥグ・ビリグ』が有名である。
カラハン朝の最大勢力範囲。東トルキスタン及び西トルキスタンの一部に勢力を伸ばし、中央アジアのチュルク・イスラム化を進展させたことで中央アジア史で非常に重要視されている。
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東トルキスタンの歴史
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