概説 東トルキスタンの歴史Jヤクブ・ベクの王朝と新彊省
|
||
東トルキスタン編コンテンツ 東トルキスタン超簡略史年表 2007/02/18 東トルキスタン超簡略近代史年表 2007/04/15 ウルムチ写真集@−ウルムチ市街 2007/04/22 ウルムチ写真集A−ウルムチ植物園 2007/05/04 東トルキスタンの民族構成 2007/05/05 東トルキスタンの行政区分 2007/05/27 ウルムチ写真集B-ウルムチ市内の公園 2007/07/16 天池写真集 2007/07/22 青い煌き ウズベキスタン写真展に行ってきました 2007/08/19 中国共産党の残虐行為D−東トルキスタン侵略 2007/09/12 ラビア・カーディルさん来日決定!! 2007/10/08 ラビア・カーディルさんについて 2007/10/28 ラビア・カーディルさん東京講演会参加レポート 2007/11/11 【投稿文】ウイグル代表ラビアカーディルさんの講演会 2007/11/24 世界ウイグル会議について2007/11/25 東トルキスタンの地理・地形 2007/12/23 |
カシュガルに到着したヤクブ・ベクはほどなくしてブズルグから実権を奪い、ヤルカンド、ホータン、クチャ、ウルムチを次々と征服して、1867年には東トルキスタン南部を支配下におさめた。1870年にトルファンを占領し、1871年にはウルムチを占領した。その間、東トルキスタンをロシアに対する緩衝地帯にしたいと考えていたイギリスは1868年にヤクブ・ベクの王朝を国家として承認、1870年にはロシアも承認した。また、ウルムチが占領陥落したのを見計らって1871年にロシアは東トルキスタン北部のイリに軍事侵攻し、占領した(この時点でイリはヤクブ・ベク王朝の支配下に入っていなかった。) ヤクブ・ベクの王朝は外交も行い、1872年にロシアと条約を締結して貿易を開始し、1874年にはイギリスとも同様の条約を結んだ。さらにヤクブ・ベクの王朝はオスマン・トルコ帝国の宗主権を認め、軍事援助を受けた。さらに中央アジアのブハラ・ハン国とも外交関係を樹立した。 短期間でまたたくまに東トルキスタンの大部分を占領して新国家を打ち立てたヤクブ・ベクだが、ムスリムが一斉反乱を起こしたさなかに現れたカリスマ的指導者とはならなかった。イスラムの戒律を厳格に適用した統治は、200年以上の異教徒の支配でゆるい戒律に慣れきっていた東トルキスタンの住民から反感をかった。また中国との交易が立たれたため、経済は思わしくなく、住民から重税を課したことも反感をかった。 一方清朝では、新彊を放棄してでも海防に力を入れるべきと主張する李鴻章(海防派)と、新彊を失えば次はモンゴルが、次は北京が危うくなると主張する左宗棠(塞防派)との論争が行われたが、最終的に塞防派の主張が取り入れられ、左宗棠は1875年に新彊遠征の総司令任命された。 1年半の準備期間を経て、1876年4月、左宗棠の軍勢は東トルキスタンに攻め込み、1877年9月、ロシアが占領していたイリを除く東トルキスタン全域の奪還に成功した。ヤクブ・ベクは1877年4月に自殺している。またロシアとの懸案であったイリの所属問題についても、1881年のイリ条約により、清に返還された。当時ロシアはトルコとの戦争直後であったことが清に幸いした。 ロシア国境の防衛を重視する左宗棠ら塞防派は、新彊を内地と同様の行政制度を導入することを主張し、こうして1884年に新彊省が設置された。ベグ官人制は廃止され、内地と同様の区、府、州、県といった地方行政制度が導入された。しかし、省政府の人事権が及ぶのは県長レベルまでであり、漢人人口が僅少である新疆南部を中心に、既存の在地有力者の権力は維持された。また現地人の子弟に対しては漢語の学習が強制されるようになった。 ヤクブ・ベク |
東トルキスタンの歴史
|