概説 東トルキスタンの歴史Gモグーリスタン・ハン国とヤルカンド・ハン国
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15世紀の半ば、モグーリスタン・ハーン国は西はタシケント、東は天山山脈北麓のバルス・キョル、北はイルティシュ川から南はホータンまでを領域にし、イリを根拠地にしていたとされる。だが15世紀後半になるとウズベク、カザフの勢力が台頭し、ティムール帝国を脅かすまでになり、モグーリスタン・ハン国も退勢を余儀なくされる。 1485年に即位したスルタン・アフマド・ハーンはトルファンに根拠地を移し、1502年にマンンスール・ハーンがあとを継いだ。この時代にトルファンは完全にイスラム化され、東トルキスタンにおけるイスラム化はほぼ完成したといえる。この時代、宗教指導者のホージャ・タージュッディーンが東トルキスタン東部のイスラム化に大きな影響を及ぼしたとされる。 16世紀初頭、マンスール・ハンはハミを攻撃したため、明との関係が緊張した。モグーリスタン・ハン国は、異教徒ヒタイ(中国)に対するイスラムのジハード(聖戦)とみなし、1524年に2万の軍勢を率いて甘粛を攻撃、その後も軍事攻勢を続け、1529年についに明はハミの再建を断念するに至った。 その頃、マンスール・ハンの弟、スルタン・サイードは1514年、東トルキスタン西部でハーンに即位した。当然兄の万スールハーンとの抗争が生じたが、結局両者は若いし、東西にハーンが並立することになった。マンスール以降のモグーリスタン・ハン国はその後、16世紀末までに消滅したようである。 スルタン・サイードはカシュガルやヤルカンドに根拠地を構えたので、一般的にカシュガル・ハン国またはヤルカンド・ハン国と呼ばれる。この頃からスーフィーというイスラムの宗教指導者が力を持ち始め、サイードはシハーブッディーン・マフムードの弟子となり、長年の悪習であった飲酒をやめるに至った。スルタン・サイードのあとを継いで即位したアブドゥッラシード・ハーンはホージャ・マフムード・シャリフというスーフィーに帰依した。1559年に即位したアブドゥル・カリーム・ハーンはムハンマド・ワリースーフィーの弟子となった。1591年に弟のムハンマド・ハーンが即位し、ホージャ・ムハンマド・ヤフヤーが宗教指導者となった。ホージャ・ムハンマド・ヤフヤーは1645年に至るまで7代のハーンの宗教指導者を務めた。 ヤルカンド・ハン国は全盛期には東トルキスタン全域のほか、北はバルバシ湖、西はフェルガナ盆地まで領土を広げたが、1680年にジュンガル帝国によって滅ぼされた。
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東トルキスタンの歴史
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