概説 東トルキスタンの歴史F−モンゴル帝国とチャガタイ・ハン国
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チンギス・ハンの名前を知らぬ者はいないであろう。1206年のクリルタイ(大会議)で推戴されたチンギス・ハンは怒涛の勢いで領土を広げ始める。だが当サイトで述べるのは東トルキスタンの歴史であるので、モンゴル帝国の大躍進については詳しく触れないこととする。 1211年に天山ウイグルのバルチュク・アルト・ティギン王はカラ・キタイから離反してモンゴル帝国に帰順した。1218年にモンゴル帝国はカラ・キタイを滅ぼし、東トルキスタンは比較的容易にモンゴル帝国に統治下に入る。チンギス・ハンはウイグル王に娘を与え、第五の子と呼んで王家の一員とした。チンギス・ハンは1226年に西夏遠征中に没するに至った。 ウイグル人はもともと商業に明るく、国際情勢に精通し、高い識字能力と優れた文化を有していたことからモンゴル帝国内でも重用され、多くの優秀なウイグル人がモンゴル帝国に登用されるなど、モンゴル人とウイグル人は長期に渡って良好な関係を築き上げた。1219年にはウイグル王はモンゴル軍のホラズム遠征に参加している。1235年にモンゴル帝国の首都がカラコルムに定められると、ウイグル人のチンカイが書記局の首班に任命されている。だが13世紀後半には天山ウイグル王国も中央アジアの動乱に巻き込まれ、1280年には天山ウイグルの王家は甘粛に逃れ、天山ウイグル王国は事実上消滅した。1318年にニギュリン王は甘粛の永昌で没した。 モンゴル帝国がその後、元とその他のハーン国に分割統治されるようになるのは周知の通りである。チンギス・ハンの次男であるチャガタイはカラ・キタイの旧領を与えられ、後のチャガタイ・ハン国の基礎を築く。チャガタイは兄のジョチとは不仲であったが、弟のオゴデイとの関係はよく、チンギス・ハンの死後は弟のオゴデイを強く推し進め、オゴデイがモンゴル帝国の第2代ハーンとなる。その後も兄弟の仲は良好であり続けたが、1241年にオゴデイが、1242年にチャガタイが相次いで死去した。その後は後継者争いの混乱が絶えず、らチャガタイ家の権威は衰退する。天山ウイグル王国が混乱に巻き込まれて東トルキスタンから事実上消滅するのもこのときである。 1283年にチャガタイ家の第10代君主にドゥアが即位した。1242年のチャガタイの死去からわずか40年余りで第10代目に達していることからも、この時期の中央アジアがいかに混乱していたかがわかるであろう。ドゥアは当初、オゴデイ家のカイドゥの傀儡に等しかったが、1301年にカイドゥが没するとチャガタイ家の復権を目論み、敵対勢力を次々と退けて1306年、チャガタイ・ハン国の事実上の建国に成功する。 とはいってもドゥアは翌年に早くも死去し、後を継いだコンチェクも2年後に没すると、チャガタイ家の本流ではないタリクが即位した。これに危機感を抱いたドゥア一門はクーデターを起こしてタリクを殺害し、ケベクが君主に即位した。さらに1310年にはケベクの兄エセン・ブカが君主に即位する。1320年に再びケベクが即位し、1324年に弟のタルマシリンが即位した。この頃よりチャガタイ・ハン国の西部ではチュルク・イスラム化と都市定住化が進み、東部では伝統的な遊牧生活が続けられ、互いを軽蔑しあうようになり、東西の対立が深まった。1340年ごろにはパミール高原を境にして東チャガタイ・ハン国と西チャガタイ・ハン国に完全に分裂した。東トルキスタンに相当する領域を支配したのは東チャガタイ・ハン国である。 1347年に東チャガタイ・ハン国の君主に即位したトゥグルク・ティムール(ティムール帝国のティムールではない)は1360年にチャガタイ・ハン国の東西統一に成功する。トゥグルク・ティムールの死後は再び東西分裂状態に陥るが、西部はティムールに占領され、東部も1371年にティムールに服属するようになる。だが東チャガタイ・ハン国の系統はその後もモグーリスタン・ハン国として存続し続ける。
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東トルキスタンの歴史
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